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00/03/05 父の肖像(2)

 病か ら開放された父は、村役場に職を得て生来の生真面目な性 格と、祖母との生活を維持しなければならない使命感のために必死で働いたことと思います。
 
 1941年(昭和16年)、同郷の母と結婚します。母もまた貧しい家の出身でした。父の言う「みんな似たり寄ったりの」貧しさだったのでしょう。
 翌年姉、続いて兄、私と2男1女に恵まれました。
 
 当時の田舎では、専業農家が殆どで我が家のように飯米(自家用に収穫した米)と現金収入がある家庭はいくらかは恵まれていた方でしたが、三反百姓の生活 は 豊かさとは程遠いものでした。わずかな飯米を現金にかえて子供達の学校の費用にするような状態でした。
 
 父は青年期に患った病気が原因で、手と足の機能に障害を持っています。とても百姓仕事をできる身体ではありません。祖母が一人でしてきたように母もまた 女 手ひとつで百姓仕事を続けていました。祖母の時代と違うのは農業も機械化が進んできたことと、いくらかは手助けになる子供達がいたことです。
 
 父は百姓仕事で母に負い目があったのではないかとと思っています。母と子供達で田圃で仕事をしていると父が自転車に乗って、やかんに入ったお茶を届けて く れたことを覚えています。自分が百姓仕事ができないことにイライラしたこともあったでしょう。
 
 41歳の時に村役場の収入役に就任しました。苦節23年父の働きが認められた我が家の「晴」の季節でした。
村が近隣の町村合併で”市”になった後も、出納室長として働いていました。税金の取立てのためにおぼえた自転車が街の市役所までの通勤を助けてくれまし た。
 
 引き際を知っていたのでしょうか54歳で市役所を退職した後は商店の経理を手伝っていました。
 
 70歳を過ぎる頃からは病気がちになっていますが、元々病弱であった父は病との付き合い方を知っているようです。
現在は小康を得て、悠悠自適に過ごしています。

 私は、父が田舎町の下級職員として三十数年のながきを勤め上げ、加齢とともに低下した運動能力と爆弾のような病を抱えてなお家族とともに元気でいてくれ る ことに感謝しています。
 
 私の今のあり様は、大きく父に影響されていると思っています。姉も兄もその表現の仕方、表に現れる姿は違いますが父の子としての拘りの中に生きているよ う な気がします。
 
 父は多くを語ってきませんでした。それは、肉体的なハンディキャップと、それから来る精神的な負い目から、多くを語らなかったのだろうと思っています。
 
 私はその父の姿から多くを学んできました。五十路を過ぎてなお決して良い息子ではありませんが、父の子としての誇りを持って生きつづけたいと思っていま す。

◇その 後◇
 01年2月、88歳で天寿を全うさせていただきました。
 まとめようとしていた父の半生記はまとめられずに終わってしまいました。
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