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05/03/05 放浪の俳人・井上井月(いのうえ・せいげつ)
山頭火に親しんだものが辿るという定 説?のとおり、私も井上井月に行き当たりました。
山頭火は、俳友から借りた井月の句集「井月全集」を何度も読み、長野県伊那にある井月の墓に参りたいと思うようになり、其中庵住まいの1934(昭和 9)年、名古屋から馬籠宿を経て飯田から伊那のへ旅に出るのですが、途中の飯田で病に倒れ果たせませんでした。
1939(昭和14)年5月、浜松から天龍川沿いに北上し墓参を果たしています。
◇「風来居日記」より、墓参当日の日記
この日の日記は長く100行近く書かれています。飯田線で伊那に着いた山頭火は俳友・若水宅に荷物を預け俳友とともに井月の墓に詣でます。少し長いです が井月墓参部分を引用します。
五月三日 晴、うららかな日であった。若水居。
(前略)
井月の墓を前にして
・お墓したしくお酒をそゝぐ
・お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました
・
駒ヶ根
をまへにいつもひとりでしたね
・供へるものとては、野の木瓜の二枚三枚
”井月の墓”
伊那町から東へ(高遠への途中)一里余、美篶(ミスズ)村六道原、漬大根の産地、墓域は一畝位、檜の垣、二俣松一本立つ(入り口に)、野木瓜、椋鳥?
ツツジ
ヒノキ苗
散松葉
墓碑、(自然石) ”降るとまで人には見せて花曇り”
(井月にふさはしい)
墓石、”塩翁斎柳家井月居士”俗名塩原清助
位牌、”塩翁斎柳家井月居士”
夕日をまともに、明るく清く。
駒ヶ嶽、仙丈ヶ岳。
新しい盛土、石がのせてあつた。
モンペ姿の少女。
斑鳩のうた。
”苧環をくりかけてあり梅の宿”
”何処やらに鶴の声きく霞かな”
”駒ヶ嶽に日和さだめて稲の花”
井月の偽筆! 彼は地下で微苦笑してゐることだろう!
塩原本家 軸、屏風、短冊
塩原新家 愛瓢
・ぶらぶらぬけさうな歯をつけて旅をつゞける
・わが旅のつゞくほどにお産(オサン)のつゞき
墓石の「塩原清助」は、晩年に事情があって塩原家に養子縁組をしたそうです。また、山頭火の日記後半に「塩原本家、新家」とあるのはその家のことのよう です。
山頭火がこんなに慕った井月という人はどんな人だったのでしょうか?
1822(文政5)年越後長岡の生まれ。元は井上克蔵という武士との説もある。
1835(天保10)年頃からか、北海道から近畿方面を行脚。
1858(安政5)年頃、伊那地方に現れたようである。
1887(明治20)年3月10日没、享年66歳。
井月は、ふらりと伊那谷に現れて、亡くなるまでの約30年を、伊那谷・善光寺平から出ることなく放浪・漂泊の生活を続けています。
その生活は、俳諧に志のある人の家に2泊3泊し酒食のもてなしを受け、あるときは野宿をしながら伊那の各地を徘徊・漂泊をつづけました。乞食井月と呼ば れ、約1700句と多くの書を残しています。その書は芥川龍之介が「神業に近い」と絶賛しているようです。
酒無しではおられないことは山頭火と同じですが、色々と違いがあります。
・造庵し安住することを強く願った山頭火と、死ぬまで自分の住処を持とうともしなかった井月
・遍路として、また俳友を訪ねて全国を放浪した山頭火、伊那谷の中だけを徘徊した井月
井月は、熱烈な芭蕉の崇拝者であったようです。芭蕉の命日(時雨忌:翁の日)にこんな句を読んでいます。
”我道の神とも拝め翁の日”
井月に誘われて、春日愚良子編著「蝸牛俳句文庫
井上井月
」と、残された俳句と僅かな日記を元に井月物語として構成された江宮隆之著「
井上井月伝説
」を読んでみました。
私の好きな井月の句
”菜の花の径(こみち)を行くや旅役者”
山頭火は「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通(下記参照)や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」と言っ ています。
これからは、路通や放浪・漂泊の俳人を訪ねてみましょう。
「八十村路通(はそむら・ろつう)」 〜1738年
近江・三井寺の生れ。芭蕉一門。放浪行脚の乞食僧侶でで後に還俗。
”去ね去ね(いねいね)と人にいはれつ年の暮”
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