05/04/04 西東三鬼「冬の桃」
放浪の俳人と
して種田山頭火(たねだ・さんとうか)、井上井月(いのうえ・せ
いげつ)、尾崎放哉(おざき・ほうさい)に続いて西東三鬼(さいとう・さん
き)を取り上げるつもりでいたのですが、三鬼について少し調べていきますと、私のイメージしている「放浪」と三鬼の「放浪」は少し違うようです。
山頭火が
九州や四国、或いは東北の地を、井月が伊那谷を、放哉が関西地方と北陸、小豆島を放浪したように、空間を放浪したのではなく、三鬼は女性の間を放浪した人
のようです。これはこれ
ですざましいものだったようですが。
今回は自伝的小説等が収録された「冬の桃」の紹介
に代えます。
◆略歴
1900(明治33)年、岡山県津山市生れ。
1925(大正14)年、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を卒業。同年秋に結婚し、シンガポールにて開業。
1933(昭和8)年、帰国し東京の共立病院に勤務。患者の薦めで俳句を始める。
1940(昭和15)年、京大俳句事件が起こる。治安維持法違反で検挙。句作活動中止を条件に起訴猶予となった。
1942(昭和17)年、東京に絶望し単身神戸へ。
1948(昭和23)年、大阪府枚方市に転居、香里病院に勤務。
1962(昭和37)年4月1日逝去、61歳。
◆冬の桃
「冬の桃」は1977(昭和52)年に毎日新聞社から出版されています。もう絶版となっているようで、私は「日本の古本屋」
(http://www.kosho.or.jp/)
から購入し読みました。同じ内容の本が講談社文芸文庫から「神戸・続神戸・俳愚伝」と言う書名で出版されていて入手可能です。
◆神戸
「神戸」は俳句誌に1954(昭和29)年9月〜1956(昭和31)年に掲載されたものです。
三鬼が、京大俳句事件に連座して1940(昭和15)年8月京都府警に検挙(その後起訴猶予となる)された後、1942(昭和17)年東京に「絶望」し
神戸に赴き、掃き溜めのようなホテルの滞在客となって、同宿の滞在客、エジプト人、トルコタタール人、白系ロシア人、朝鮮人と日本人の女、、の日常(非日
常?)等が十個の話に描かれています。
三鬼は執筆の目的を「かくして、ようやくおぼらげながら判ってきた執筆の目的は、私という人間の阿保さを公開することにあるらしいのである」と書いてい
ます。
第9話「鱶の湯びき」に、三鬼の女性遍歴の一部が書かれていてその奔放な女性関係に脱帽です。
「阿保」さの一つの証左として書かれているストーリーは、ある女性と知り合いになり「母の命が長くはない、存命の内に孫の顔を見せたいので、あなたの子
供を産ましてくれ」と言う女性の願いを聞いてしまいます。
身重の彼女は、三鬼を自分の婚約者として紹介するので、実家の長崎まで同行して欲しいと言われ実家に出向きます。
実家では、結婚式の準備が整い、、、
長崎から帰京の年の暮れに、神戸に「遁走」したそうです。
他にも婚外子が何人かいたそうです。
◆続神戸
「続神戸」は、自らが編集をしていた「天狼」誌に1959(昭和34)年に掲載されたものです。
「続」のタイトルが示すように、舞台は同じ掃き溜めホテルとそこに住む人々の戦後の話です。
戦後の三鬼は、占領軍相手の建物の修理工事を請け負っている会社の渉外部長の職を得ます。
その仕事は、占領軍が急遽改造した米兵向け売春宿の修理の米軍との折衝が仕事です。そんな中で、三鬼が再び作句に関わって行きます。
◆俳愚伝
三鬼の俳句への関わりが書かれた評論集です。
俳句との出会い、俳友達との出会い、弾圧、グループの離合集散等が書かれています。現在の私には興味の対象ではありませんので、あまり読み込んでおりま
せん。
京大俳句事件について少し。
戦前、三鬼たちの俳句は「新興俳句」と呼ばれ、特に「京大俳句」には
”千人針を 前にゆゑしらぬ いきどほり” 中村三山
というような反戦的な句もあったようです。
三鬼を検挙した京都府警は「昇降機 しづかに雷の 夜を昇る」と言う三鬼の写生句の意味を「雷の夜すなわち国情不安な時、昇降機すなわち共産主義思想が
昂揚する」とこじつけ解釈をしてまで弾圧をしたのでした。
◆三鬼の句
三鬼の有名と言われる句を少し紹介しますが、なかなか読み切れません。
「水枕ガバリと寒い海がある」
「おそるべき君等の乳房夏来たる」
「中年や遠くみのれる夜の桃」
「広島や卵食ふ時口ひらく」
「秋の暮大魚の骨を海が引く」
|