05/04/07 松永
義弘(翻訳)「葉隠」
「残
日録」05/03/24等で井上ひさし
さんの「不忠臣蔵」を紹介しました。
渡部角兵衛と言う赤穂浅野家の浪人が、大石内蔵助を雇いたいと言う備前佐賀・鍋島家に断りの使者として出向いた時に、「葉隠」を口述した中村常朝に出会います。。。。
今回は、その「葉隠(はがくれ)」の松永義弘さんの現代語訳を紹介します。
鍋島家・書物役であった山本常朝(やまもと・じょうちょう、「不忠臣蔵」ではやまもと・つねとも)が、主君鍋島光茂の死に殉じて剃髪隠遁した時代に口述
したものを、同じく鍋島家の家来・田代仁基(たしろ・つらもと)が七年も掛けて筆記したものです。(光茂の時代には殉死が禁止されていたそうです)
内容は、武士(鍋島侍)はこうあるべきだと言う教訓と、鍋島家のお殿様の逸話、鍋島武士の武勇伝などが11章に分けて書かれています。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」
主君のために死ぬことが、武士の本懐だという考え方が、戦前戦中国威の昂揚のために利用されたこと、その後も民族主義的な人々が利用していることから、
特異な本と見られています。
◆教訓
現代にも生きる教訓をいくつか紹介します。
◇お国言葉
江戸や上方に出張しているときは、お国言葉を使うべきである。お国は田舎風で素朴なところが宝である。
英会話学校のテレビCMで、吉田茂が英語で演説をしているフィルムが使われていますが、外交上の演説は自国語ですべきではないかと思います。誇りを持っ
て。
◇身なり等
姿かたち、身なりは、いつも鏡を見て正したが方がよい。
ものの言い方は、自宅で直すこと。
一行の手紙といえども下書きをすること。
と、言っています。手紙などは相手が掛け軸にするかも知れんと思って書けと言っています。(乱筆の私は猛省です)
◇馬鹿話
貴人や老人の前で、考えもなく学問や道徳、昔話などするものではない。見苦しい。
電車の中や、酒場の席で良くありますね。知ったかぶりの話など年寄りには片腹痛いことばかりです。
◇紅おしろい
酔い覚めや寝起きなど顔色が悪いときには紅粉を使うべし。
身だしなみを整え、相手に不快感を与えないと言うことでしょうか。
◇好きなこと
人生は短い、だから好きなことをして暮らすべきである。苦を見て暮らすのは愚かなこと。
でも、これは若者には話さないのが極意である。因みに、私(常朝)は寝ることが好きである。
小難しい顔の常朝さんを想像していましたが一気に好きになりますね。この言葉で「武士道とは死ぬこと・・・」と言った人とは思えなくなります。
楽をして生きようなどとは決して若い奴らには言わないことにしましょう。苦労は買ってでもしろと。。
◇発句
一段落して一息、二人は句を読んでいます。
手ごなしの粥に極めよ冬籠り 期酔(陣基) (手ごなし:自炊)
朝顔の枯蔓もゆる庵かな 古丸(常朝)
◆お殿様の言葉
鍋島家は藩祖・直茂、一代・勝茂、二代・光茂、三代・綱茂と続きますが、それぞれ名君であったのかどうか不案内ですが、常朝さんによると立派な言葉を残
しておられます。
◇粥
ある寒い夜、直茂公夫婦はこたつに暖まりながら、こんな夜に一番寒い思いをしているのは誰だろうと思案の果て、牢屋の罪人が火もなく寒い思いをしている
ことの思い当たり、早速粥を作って食べさせたそうです。
◇うわなりうち
直茂公から離縁された元妻は、しばしば親族の女を集め、後妻の元に押し掛け乱闘を仕掛けたそうですが、後妻の扱いが見事であって何事もなく帰ったとのこ
と。
先妻が後妻に乱闘を仕掛けるのを「うわなりうち」と言う習俗だったそうです。他人には何か楽しそうな出来事です。
◇人の評定
勝茂公が鷹師の資質について聞いたとき、「身持ちは悪いが、鷹のことにかけては名人だ」と評された鷹師は褒美をもらい、「鷹にかけては名人だが身持ちが
悪い」と評された鷹師は追放されたという。
現代でも良くあります。「大酒飲みだが仕事は立派」な男と、「仕事は立派だが大酒のみ」な男のどちらを取るかと言えば前者でしょうね。人を評するのは難
しいものです。
◇四とおり
勝茂公は奉公人には4つのタイプがあるという。
急急:言いつけを素早く理解し、素早く仕上げる最上の者
だらり急:理解は遅いが、事に当たればしっかりと仕事をする者
急だらり:言いつけは、なるほどと理解するが、手間がかかり仕事が遅い者
だらりだらり:大方の者はだらりだらりである。
確かに私も大方の者です。
◇官位
威張りたがりやの吉良上野介が光茂公に「大大名でも官位が低いと面白くないでしょう。少将の位が領地半分と引き替えにいただけるとしたらどうします
か?」と問うた。
光茂公は即座に「いくら官位が高くても、食べ物がなくてはどうしようもない」と答えたそうです。
吉良家は高いくらいだったそうですね。武家としての石取りの多寡と官位は別だったのですね。官位は相変わらず朝廷が出していたそうです。江戸時代も時の
権力者は天皇制をうまく利用して国を治めていたのですね。
◆武勇伝
鍋島家だけだったのでしょうか、斬ったり、斬られたり、喧嘩をしたり、腹を切ったり、主君に殉じて追い腹(殉死)と血しぶきが飛び散るような生臭い話ば
かりです。
聞書第七、第八、第九が武勇伝の章です。この3つの章で68人が壮絶な死に方をしています。
一話だけ紹介します。
◇切腹
野村源左衛門と言う侍は、ばくち好きで長崎まで出かけてばくちをしたことが明らかになり、国法にそむいたと切腹を命じられます。
切腹の場で源左衛門は介錯人に「十分に腹を切り、立派に終わってから、声を掛けるので首を切ってくれ。もし間違ったら七代先まで祟るぞ」と言う剛のも
の。
十文字に腹を切って腸が出てからも、紙と筆を所望し「腰抜けというた伯父(をんじ)め くそくらへ 死んだる跡で 思いしるべし」と書いて伯父に見せろ
と言って死んだそうな。
◆死ぬことと・・・
平時における職業軍人(武士)たちの心構えを説いた本で、地方の色々な事情も分かって楽しい本でした。
右翼が喜び、左翼が毛嫌いするそんな本には見えませんでした。
寄ってたかって利用されただけで、さぞや常朝さんもお困りでしょう。
◆佐賀
巻末に「葉隠紀行」として、葉隠縁の地が紹介されています。
私の世代では「佐賀県人の歩いた跡はペンペン草も生えない」と佐賀の人の吝嗇を評していましたが、この本を読んで、行ってみたい街が一つ増えました。
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