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05/12/03 種田 山頭火「草木塔」

 前回の「残日録」(05/12/01) で、山頭火の“うしろすがたの しぐれていくか”という句が、初冬の雰囲気に合うかと紹介しましたが、改めて句集「草木塔」を読み返してみました。私の気になる句を並べてみます。

◆水
 旅の山中で美味そうに水を飲む句が多いです。
 滴る山の水はペットボトルの「○○の銘水」より格段に美味しく感じるものです。
 夏のサイクリング時には、頭からざぶりと水をかぶり涼を取ります。

◇分け入れば水音
 山道を分け入っていけば聞こえてきたのは谷川の水音でしょうか、ちょろちょろと流れ落ちる水の音でしょうか?
 喉を嗄らし、腹を空かした身には、涼しさとともに渇きと餓えを癒してくれる音だったのですね。
 できれば、深い谷の水音でなく、手の届くところに滴り落ちている水であって欲しいです。

◇山からしたたる水である
 前句の水音は、この水だったのでしょうか?
 手のひらに受けて、口を湿したいです。
 私は、そのまま口を付けて飲んだりします。冷たくてキリリとした水の味です。

◆旅のこころ
 山頭火のような旅をしたことはありません。
 山頭火の旅は、漂泊、放浪、乞食(こつじき)の旅です。真似ができるものではありません。
 私には、せいぜい数日を非日常の中に過ごすくらいが関の山です。

◇けふはここまでの草鞋をぬぐ
 目的地のないような山頭火の旅も、一つ一つの区切りは寺社への参拝や、俳友との邂逅でした。
 毎日の区切りは、野宿なのか宿なのか、ここまでと決めて草鞋をぬぐ瞬間でしょうね。

 2週間ほど四国をまわった時の私の一日の区切りは、宿を確保することでした。公衆電話のボックスの汚れた電話帳から宿を探し予約が取れるとホッとしまし た。

◇どうしようもないわたしが歩いている
 落ち込むとよく口にする句です。
 救いようのない自分を、蔑んで見ている自分がいます。
 せめて背筋を伸ばして歩いていたいものです。

◇捨て切れない荷物のおもさまへうしろ
 私も、捨て切れない拘りを抱えたまま生きています。
 捨てられればどんなに楽になれるのかと思うこともありますが、中々捨てきれずに引きずって歩いています。

◇うしろすがたのしぐれていくか
 晩秋から初冬にかけて降る雨は寂しいものです。
 先日も紅葉を見に行った奈良の山中で時雨れにあいました。
 お昼過ぎにもかかわらず、夕暮れ時のようなもの寂しい気分でした。

◇夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ
 雨男ではないと思っているのですが、サイクリング中にはよく雨に降られます。
 姫路方面をポタリングして、書写山円教寺に登ったとき、路傍の石仏も私もずぶぬれでした。
 一人濡れ鼠は寂しいですが、お地蔵さんも一緒だと心強いものです。

◇柳ちるもとの乞食になつて歩く
 庵を結んでみたけれど、生活は破綻し再び三度、旅に出ることとなりました。
 ああしたい、こうしたいと思っても思うように行かず、結局一番なりたくない状態に戻ってしまうのです。

◆酒
 水も好きだった山頭火は、水以上に酒が好きでした。(当然ですね)
 私も酒が好きで未だに「節酒」もできずにおります。

◇よい宿でどちらも山で前は酒屋で
 笑える句です。
 山に抱かれたように建つ宿の二階の部屋から、表の通りを見下ろすと酒屋が目に入ったのでしょうか。
 山頭火は小銭を握って茶碗酒を呷っていたようですから、夕飯前にいっぱい引っ掛けに出かけるのでしょうね。
 きっと懐は酒を飲むくらいには暖かかったのでしょうね。

 初めて訪れた街で、安いビジネスホテルの近くに[酒販売]のコンビニがあると何故かうれしいものです。
 そんなに飲むわけでもないのに。

◇酒はしづかに身ぬちをめぐる夜の一人
 酒飲みとしては共感せざるを得ない句です。
 ぐぃっと一口飲んだ酒が、身体の中を駆けめぐります。
 一人では燗をするのも面倒ですが、美味しい日本酒・神亀などを常温でぐぃっと一口、酒飲みには至福の時間です。

 若山牧水の
 “しらたまの 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり”
 を思い出します。

◆ちょうちょう
 蝶々の句もいくつかあります。

◇てふてふひらひらいらかをこえた
 越前永平寺に参拝したときの句だそうです。
 何度、読み返しても気になる句です。

◇ひらひら蝶はうたえない
 この句も好きな句です。
 悲しい句です。

◆植物
 旅の中では路傍の草を枕にし、庵を結べば庭の草を抜き、野菜の種を蒔き、色々の植物と関わっている山頭火です。

◇ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ
 強い植物ですね。踏まれても踏まれても芽を出し花を咲かせ、綿毛はどれくらい飛んでいくのでしょうか?
 知り合いの方に「強く生きたい」と「たんぽぽ」をハンドルネームにされている方がおられます。

 たんぽぽ(蒲公英)は、キク科の多年草で3〜5月が開花期と言われていますが、土手を走っていると秋にも花を見ることがあります。
 英語では[dandelion]というそうですね。葉っぱのぎざぎざからライオンの歯[dent de lion](中フランス語)を連想しての言葉だ そうです。

◇蕗のとうことしもここに蕗のとう
 春先のサイクリングの楽しみの一つに、山菜採りがあります。
 本格的な山菜取りではありませんから、取れるものはワラビ、蕗のとう、蕗、独活、野蒜などです。
 山菜は多年生草ですから、毎年同じ場所に芽を出します。去年蕗のとうを見つけた場所に、今年も薄い緑の色を見つけるとうれしいものです。

◇生える草の枯れゆく草のとき移る
 庭に生えていた草が枯れていく、時の移ろいを感じてしまいます。
 この句も、一本の草を数ヶ月見続けていたのでしょうから、定住時代の句でしょうか。

◇ぬいてもぬいても草の執着をぬく
 放浪の生活者には、羨ましい作業です。
 自分の庭の草を取る、そしてその草が執念深くまた芽を出してくる。
 「なんという執念だ」と言いながらも、いとおしいのでしょうね。

◇やっぱり一人がよろしい雑草
 雑草は一人でいるのが相応しいというのでしょうか?
 一人でいる人間には雑草が似合うということでしょうか?
 雑草を愛でるのは一人がよいということでしょうか?

 江戸中期に播磨加古郡別府(現在の加古川市)の豪商で洒落人だった滝野瓢水[1762(宝暦12)年没]という人の句に、
 “手に取ルなやはり野に置蓮華草”
 というのがあります。     

◆虫
 一人遊びをしていた子供でしたから、蟻等の虫は良い友達でした。

◇炎天のはてもなく蟻の行列
 蟻の行列を見ていると飽きないものです。
 行列を辿っていくと、何時の間にか他のものに興味が移り見失ってばかりおりました。
 虫たちはどんな意志をもって、どんなコミュニケーションの方法で、整然とした行進をしているのでしょうか?

◇夕立晴れるより山蟹の出てきてあそぶ
 雨上がりの遍路道を徒歩で歩いていると、蟹がたくさん出てきてことがありました。
 取られたり、踏まれたりする危険があるのに、何故出て来るのでしょうか?
 遊んでいるのでしょうか?
 道に出てこざるを得ない事情があるのでしょうか?

◇秋もをわりの蠅となりはひあるく
 動きの鈍くなった晩秋の蝿の姿を、老いていく自分の身に置き換えて見ていたのですね。
 老いて死に行くことをじっと見つめていた山頭火です。私も同様。

◆父
 若くして自死した母への思いが強い山頭火でしたが、父をよんだ句がありました。

◇だんだん似てくる癖の、父はもうゐない
 種田家を没落させた直接の原因は父の放蕩にあり、母の死も父の所為との思いもあったでしょうに、その父に似てくるのですね。
 私も同様に、母への思い入れが強いくせに、何故か癖や風貌も亡き父に似てきています。  

◆人
 人恋しい晩秋(初冬)です。
 胸を打つ句がたくさんあります。

◇夕焼雲のうつくしければ人の恋しき
 時々紹介している「越畑便り」には、京都市右京区嵯峨越畑地区の夕焼けの写真をたくさん載せられております。
 そういえば、あの夕焼けの色は人恋しい色合いなのですね。

◇一日物いはずねむれない月夜となる
 一言も物言わぬ日がたまにあります。そんな夜は少々酩酊して眠るしかありません。

◇しんじつ一人として雨を観るひとり
 雨宿りでしょうか、軒先からしとしと降る雨をみていると人恋しくなってきます。
 雨の所為でしょうか?
 静けさの所為でしょうか?

 書写山圓教寺の食堂(じきどう)の縁に座り、しとしとと降り続く雨を眺めていたことがありました。
 雨が心を落ち着かせ、人を恋しくさせるのですね。
 
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