06/03/19
母のことなど
「残日録」(06/03/04)
で母のぼけ防止の一つとして自
分史を書いてもらおうかと相談してみたら早速書き始めたそうです。
書きかけの原稿を預かってきてパソコンにタイプインしています。
歳の所為か涙もろくなったみたいで、タイプインしながら感傷に耽っております。
米寿を迎える母は寄る年波には勝てず、磐石な体調ではありませんが大病もせずに過ごしております。母の部屋のカレンダーには健康クラブ、お寺参り、友だ
ちとの茶話会とたくさんの行事
がかかれています。未だ現役です。
今回は、母の原稿から母の子供の頃のことを少し紹介します。
母は1918(大正7)年生まれです。
母の母(私の祖母)は、一男一女のあるところへの後妻でした。
生まれた家は豊かではありませんでしたから、何も買ってもらえませんでした。そんな時に他家に嫁いでいた16歳年上の義姉が母の遠足や旅行用の袴や着物
などを送ってくれました。友達にも羨ましがられすごく嬉しかったそうです。
実母が元気だった時に和歌ノ浦の温泉に連れて行ってくれたことも思い出し、よい親孝行をしてくれたと感謝しているそうです。
義兄は9歳年上でした。
おとなしくて勉強もよくでき優しい人でした。学校から帰ると近所のうちに竹細工に使う竹を磨きの手伝いに行っていて、おやつとして貰った豆やあられを自
分では食べないで私に持って帰ってくれていました。母はそのおやつが楽しみで嬉しかったことを思い出すそうです。
その兄さんが、母が小学校に入学する年に亡くなったそうです。。母も子どもながらに悲しくて泣いてばかりいたそうです。
私の実家の辺りでは昔には竹籠を作る竹細工が盛んなところでした。
母の父も自分の作った籠などを天秤棒で担いで近くの街に売りに行っていたそうです。売上の良かった日には餅を買ってきてくれたことが嬉しくて今でも思い
出すそうです。
母が結婚した私の実家、私の父のことについては以前の「残日録」(00/03/04
00/03/05)
に書いております。
そんな極貧の母子家庭が小康を得た時代に母は嫁いできます。
縁談を聞いた時、年老いた母をひとり残して嫁ぐことができないと思案ししたそうですが、母の「ひとりで仕事して食べていくから心配しないでよい」という
気丈な言葉に押さ
れて嫁いできたそうです。
母が結婚した翌年には子宮癌を発病し、初孫の姉の顔をみて「私はもうあかんので若いおばちゃんに可愛がってもらって大きくなって」と大粒の涙をこぼして
泣いていたそうです。初孫の顔を見て嬉しくもあったでしょうが、何もしてやれない自分の身の上を哀しんでいたでしょう。
母の原稿は食べ物のこと、誰に読まれるかもしれないという不安からか八方への「感謝の言葉」ばかりです。
少々行儀が良すぎるので、これからは本音も少し聞きだしてまとめていこうと思っております。
先日、顔を合わせたら「あの人、この人に上げたいから10部は欲しい」と、早や出来上がりを想像しているようです。私にはプレッシャですが。。おかげさ
まで元気な婆さんです。
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