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06/11/26 松田 道雄「われらいかに死すべきか」
 今週末も、積極的に動くことができません。
 雨模様の空は自転車に跨らない口実になるばかり、それではダメと、無理をして出かけてきました。
 阪急電車の長岡京駅から、時雨の中を京都・西山の山裾を散策してきました。

 いつもは無料で入ることのできる光明寺の境内も、紅葉の時期には仮設のゲートがあり拝観料500円です。
 観光客が多く、ゆっくりと落ち着くことができません。
 光明寺の西1Kmばかりの長法寺は、境内も狭く本堂はコンクリート製のようで風情もなく早々に退散します。
 竹やぶの中の新興住宅地の縁に残された雑木林の中の走田神社は静かな社です。
 長岡天神は七五三参りの若い家族で賑わっていました。
 凡そ10Km、3時間ほどの散策でした。


 今日は松田道雄さんの「われらいかに死すべきか」を紹介 しようと書きかけましたが纏まらずに中途半端な紹介になります。
 改めて書きたいと思います。

 著者名と書名に惹かれて古書店で買ったのは、1971(昭和46)年「暮しの手帖社」版ですが、現在は「平凡社」から出ているそうです。

 雑誌「暮しの手帖」に10回に渡って連載されたものです。
 ▽恋愛について
 ▽夫婦について
 ▽共ばたらきについて
 ▽親子について
 ▽一夫一婦について
 ▽育児について
 ▽教育について
 ▽道徳について
 ▽健康について
 ▽晩年について

 全編が鋭い社会批判で貫かれています。
 松田さんの言葉は、35年後の今も輝きを失っていません。
 一例を紹介します。

 <引用>
 いま世界は二つの独裁政治に分割されている。ひとつはむきだしの独裁だ。他は市民的自由の名のもとの独裁だ。
 一方の独裁の国で、役人を批判することが、テレビや新聞でゆるされないのとおなじに、他方の独裁の国では、大メーカーを批判することは、テレビや新聞に はでてきない。
 一方の独裁の国ではかんがえることの自由が力をもって禁止される、一方の独裁の国ではかんがえるに値しないかんがえが、自由の名で氾濫し、人をおぼれさ せている。
 <引用終り>

 国家や権力から強制される前に、この国の新聞やテレビなどは、自己規制し権力を批判しないばかりか権力に迎合しています。
 国民は、マスコミに煽られ、物事の本質を見ようとせず、垂れ流される情報に踊らされています。
 そんな状況を作り出した権力は、着々と物言えぬ仕組みを作り出しています。


 「晩年について」の章を紹介したいと書きかけましたが纏まりません。
 次回に、死とむきあう晩年の生き方について書く予定です。
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