08/01/11 初跨り
やっと自転車に跨ることができ
ました。
天気予報は10日は春のような暖かさ、11日から下り坂とのこと。
グズグズしていると自転車に跨る機会を失ってしまいます。午後になって重い腰を上げて、京都・嵐山まで走ってきました。
13時過ぎ、自宅を出発。
西国街道から大山崎町体育館裏に出て、R171を横切って京滋バイパ
スと並走するR478の天王山大橋を渡り、桂川左岸の嵐山木津自転車道にでる。
ニット帽の上からカスクを被ってきたのですが、無風快晴で、汗ばんでニット帽を脱ぐほどの暖かさです。
桂川の河川敷では、キャベツを収穫する農家の人たちが、ゲートボールに興じる老人のグループが、イーゼルを立てて絵を書いている人が、、春のような光景で
す。
嵐山木津自転車道は、日常的に整備がされていていつも快適に走ること
ができます。
嵐山は、観光客も数えるほどです。中ノ島の茶店も数軒が開いているだけです。
渡月橋のたもとでは、観光用の人力車の車夫の若者の姿が目立ちます。少ない観光客の数とはアンバランスな人力車の数で、
若者のたむろする姿はあまり良いものではありません。
渡月橋をわたり、落柿舎を目指します。
落柿舎の周りも住宅が建て込んできていますが、向かいの田んぼだけはかろうじて残されています。
落柿舎は芭蕉の門人・向井去来の草庵です。
受付でもらった季刊紙「落柿舎」によると向井去来の略歴は以下のようです。
◇1651(慶安4)年:長崎の儒医・向井元升の二男として生れる。
◇1658(萬治元)年:向井家は京都に移る。
この間、父の死後、上京し軍学、有職故実、神道を学び、貞享初年に俳諧に入ったとされています。
◇1685(貞享2)年:この頃、嵯峨野に別宅を構える。
◇1689(元禄2)年:秋頃、この庵を落柿舎と称する。
:12月24日、芭蕉とともに鉢叩きを聞く。
※鉢叩き:鉦などを叩きながら念仏を唱えあるく念仏踊りの一種のようです。
◇1691(元禄4)年:4月〜5月、芭蕉が落柿舎に滞在し「嵯峨日記」を草する。
◇1699(元禄12)年:「旅寝論」を書き終える。
◇1702(元禄15)年:「去来抄」の草稿に着手。
◇1704(宝永元)年:9月10日、聖護院近くの寓居にて病没、享年54歳。
落柿舎を、山頭火の其中庵のように住居だと思っていましたが、去来は洛東の聖護院近くに自宅を持っていたのです。
落柿舎は、趣味人の別宅だったのでしょうか?
落柿舎から渡月橋に戻り、R9千代原口の交差点を横切り、物集女(もずめ)街道、西国街道を経て帰宅。
走行距離:50Km弱、3時間ばかりの初サイクリングでした。
◆大阪
府知事選挙
10日、大阪府知事選挙が告示されました。
選挙が告示されると第一声を伝える新聞報道も、主要3候補に文字数まで合わせて平等?に扱っています。
下記は、「大阪復興は『私が』 有力3氏が訴え 大阪府知事選」(朝日新聞 08/01/10)から引用しました。
◇梅田章二候補
「私こそ太田府政を根本から変えられる唯一の候補」
150回を超える街頭演説で、国民健康保険の負担軽減、子供の医療費助成の拡充などを訴えてきた。
◇橋下徹候補
「知恵や人生経験は足りないが、エネルギーは自信がある。大阪に笑顔を取り戻すように何とかトライを決めたい」
自民党の選挙カーに乗ったが、政党色を薄めようと「自由民主党」の文字は白いテープで覆った。
◇熊谷貞俊候補
「大大阪の元気はどこへ行ったのか。日本から笑われる大阪にしてはいけない」
民主党のキャッチフレーズ「生活が第一」と書かれたタスキをかけ、党を前面に出す戦略だ。
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