08/04/14 若越(じゃくえつ)越え
グジグジとしていると気分も
すぐれません。
花便りを聞いて、越前・今庄まで出かけることにしました。
敦賀まで輪行、敦賀から旧北陸線の線路跡を利用したR476、県道207号線を経由して今庄まで、帰途はR476・木の芽峠トンネルを経て敦賀まで、若
狭から越前への国境越えの往復ルートです。
8時過ぎの電車で出発します。
青春18切符の期間も終り車内は比較的にすいています。米原で乗換え凡そ2時間ほどで敦賀駅に到着します。
駅前で荷物をとき、自転車を組み立てます。地図を忘れてきたことに気がつき駅構内の観光案内所で観光地図を入手しますが心もとないことです。
駅前から北陸線沿いのR476にでると歩道にトンネルが現れます。きれいに整備されて保存されています。
r207への分岐が分からず、r209への分岐を左折してしまいました。水が張られ耕しが進む田んぼの中をユルユルと登っていきます。蛙の鳴き声がしま
す。路肩では山菜摘みの人もいます。のどかな道です。
集落を越すと道路が荒れてきて[通行止]の看板がありました。かまわず少し走ると未舗装の急勾配で止む無く引き返します。最悪R476を行けば今庄には
通じます。
途中、農家の人に道を聞くと「国道を真直ぐ行くこと」と教えてもらいます。少し早く左折したようです。
R476に戻り、少し走ると右手に学校が見えてきます。校庭には桜が満開です。
道路は、集落の外れを高架になって大きく右に曲がっています。高架の下を一本の道があります。標識は何もありませんが、この道がr207のようです。
遠くに信号が見えます。
トンネルの交互通行の信号です。[赤信号は約5分]と表示されています。
しばらく待って、トンネル内の音を確認して少々フライング気味に出発します。天井に5mおき位に蛍光灯がついていますが、数十メートル電灯のない個所も
あります。
真直ぐ前を向いてペダルを踏むしかありません。
このようなトンネルが大小10ヶ所ほど続きます。電灯のまったくないトンネルもありましたが、路面は整備されていて安心でした。
左手には若狭湾が見渡せます。
国境の山中トンネルを越えると案内板(最下の表)がありました。25/1000とは高低差24mを1Kmで登るということです。
今庄までは、一気に下っていきます。快調に下っていきます。列車の運転士になった気分です。
今庄ではいつもの蕎麦屋・ふる里でおろし蕎麦をいただきます。
その後、カタクリの群生地にカタクリの花を見に行きます。神社の裏山の斜面一面にカタクリ群生地があります。殆どの花は下をむいて開いていません。地元
の方は、今日は日照がないので開いていないとのことでした。日差しもなく風も冷たい肌寒い気候でした。
帰りは、R476(R365と共用)のきつい上りに悩まされながらヘトヘトでR365との分岐に到着します。R365の栃ノ木峠は6月末まで土砂崩れに
よる通行止めとなっています。
木の芽峠トンネルは新しいにも関わらず歩道?幅が1m程しかなく自転車の通行には危険で車道を走ることにします。
トンネルを抜けると一気に敦賀の町まで下っていきます。ところが路面が穴だらけで最悪です。自転車には危険この上ありません。
敦賀駅では1時間ほど待って、大阪方面への直通電車で帰宅しました。
[山中信号場 待避線跡地]
当時の北陸線であった敦賀−今庄間は、海抜8メートルの敦賀駅から、南条山地の下をくぐり、海抜265メートルの山中信号所までの前後14キロメートル
にわたって千分の二十五の上り勾配が連続し、しかも曲折が激しかった。
山中信号所からは、これまた千分の二十五の急勾配で大桐駅まで一気に駆け下るという。現在の鉄道設計では考えられない過酷な線路であった。
また、列車の停車や通過列車の退避は、急勾配の線路上では不可能で、水平な折り返し線や退避線路を使わないと停車や発車できなかった。
このため、敦賀−今庄間には、敦賀市の新保、葉原ならびに南越前町の山中に、列車の折り返し線と退避線路を併せ持った施設としてスイッチバックが設けら
れた。
この方式は単線列車往来の一つの退避方法として、初期の鉄道敷設時代に考え出されたシステムである。
(スイッチバックの方式説明・略)
1962(昭和37)年3月、北陸トンネルの完成による北陸本線の開通で杉津線は廃線となり、現在、生活・産業道路として利用されている。
南越前町 |
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