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08/09/11 萩 原井泉水編「尾崎放哉集−大空」
 尾崎放哉(おざき・ほうさい) は山頭火と並ぶ自由律俳句の詠み 手であり、山頭火と同様に破滅型の漂泊の俳人です。
 自らが求めて乞食(こつじき)の旅をした山頭火とは違って、放哉は定住、安住したいのにもかかわらず(筆者の思い込みかもしれませんが)自らの酒癖や、 一徹な気性が周りから受け入れられず、或いは些事に巻き込まれて一所不在の生活を余儀なくされたようです。
放哉については「残日録」 05/03/11にも書いています。

 今回は自由律俳句の師であり、支援者でもあった荻原井泉水編の
尾崎放哉集−大空を紹介します。
 この本は(大正15)年「大空−尾崎放哉句集」として発刊され、後に井泉水との書簡なども収められ1072(昭和47)年に再刊されたものです。


◆略歴
◇本名:尾崎秀雄
◇1885(明治18)年1月20日、鳥取市に生まれる
◇東京大学を卒業
(明治42)後、1991(明治44)年頃東洋生命保険に入社、結婚
◇支配人として朝鮮火災保険会社設立に関わるも免職となり妻とも別居し、1923(大正12)年11月無一文で京都の一燈園に入り托鉢の生活を送る
◇1924(大正13)年春、知恩院内常照院の寺男となる。その後、兵庫の須磨寺、小浜の常高寺の寺男として生活する
◇1924(大正14)年夏、小豆島土庄何号庵に移り、翌15年4月7日没す

◆俳句のこと
 本書の冒頭に「放哉のこと」と題する前書きがある。井泉水の俳句についての考え方が書かれていて興味深いので書き出しの部分を引用します。

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 その人格、その人の境地から産まれる芸術として俳句は随一なものだと思う。俳句はあたまだけでは出来ない、だけでは出来ない、上手さがあるだけ、巧みさがあるだけの句は一時の喝采を博し得ようとも、やがて厭かれてしまう。作 者の全人全心がにじみ出ているような句、若くは作者の「わたし」がすっかり消えているような句(この両極は一つである)にして、初めて俳句としての力が出 る。小さい形に籠められた大きな味が出るのである。
 芭蕉の境地、一茶の風格に就いては今更いうまでもない。然し、それから後、俳句というものが一概に趣味的な、低徊なものになって、作者の人間、その気禀 というものの出ているような作は殆んどなかった。所謂「俳趣味」という既成の見方からすれば、俳句らしくなくとも、その作者のもつ自然の真純さが出ていれ ば、それこそ本当の俳句だと、私は思う。そして、そのような本当の俳句を故尾崎放哉君が見出したのである。
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 <引用終わり>原文に傍点のある部分は太字で表記した。

◆気になる句
 最近の気になる句を羅列します。掲載順です。

◇たつた一人になりきつて夕空
◇御祭りの夜明の提灯へたへたとたたまれる
◇人をそしる心をすて豆の皮をむく
◇何か求むる心海へ放つ
◇こんなよい月をひとりで見て寝る
◇淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る
◇かまきりばたりと落ちて斧を忘れず
◇漬物桶に塩ふれと母は産んだか
◇堅い大地となり這ふ蟲もなし
◇なんにもない机の引き出しをあけて見る
◇かぎりなく蟻がでてくる穴の音もなく
◇釘箱の釘みんな曲がつて居る
◇足のうら洗へば白くなる
◇乞食日の丸の旗のふろしきをもつ
◇障子あけて置く海も暮れきる
◇入れものが無い両手で受ける
◇せきをしてもひとり
◇働きに行く人ばかりの電車
◇墓のうらに廻る
◇春の山のうしろから煙が出だした

◆賢者は山を好み、智者は水を愛す
 「入庵雑記」として、南郷庵に移った頃のことを書いています。
 その中に「海」と題した章があります。

 「賢者は山を好み、智者は水を愛す」という言葉は中々味のある言葉である。
 子どもの頃は山でも海でもよく遊んだが、歳を取ってくるに従って山に入ると怖い父の前に座らされたような気持ちになり親しめなくなってきたが、海はまっ たく違い全てを許してくれる存在であると書いています。

 彼の父母に対する気持ちを山と海に喩えて書いています。
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 私は現在に於ても、仮令、それが理屈にあつて居ようが居まいが、又は、正しい事であらうがあるまいが、そんな事は別で、父の尊厳を思ひ出す事は有りませ んが、いつでも母の慈悲を思ひ起こすものであります。母の慈愛−−母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であり、且、 他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成佛を・・・・その大願をたてられた佛の慈悲、即ち、それは 母の慈悲であります。そして、それを海がまた持つて居るやうに私には考へられるのであります。
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 男というものは父より母に親しむもののようです。山頭火も父に対する思いは殆んど句にしていませんが、母に対する思いを句集「草木塔」の前書きに下記の ように書いています。
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 若うして死にいそぎたまへる
 母上の墓前に
 本書を供へまつる
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◆手紙

 放哉は手紙をよく書いたようで、書簡集もまとめられて一冊(尾崎放哉全集(2)書簡集)になっているそうです。
 先日、青春18切符を利用して放哉が1925(大正14)年5月〜7月まで寺男をしていた福井県小浜の常高寺に行ってきました。放哉の小浜の常高寺から 井泉水に宛てた手紙を読んでみます。
 当時の常高寺は本堂が消失(大正12年)しており、今も当時を偲ばせる山門と仮のお堂があったくらいなのでしょうか。

 
大正14年5月17日の手紙は下記のような書き出しから始まります。
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   井 さま    十七日       放 生   
 啓 京都二御出ノ事ト思ヒマス、旅ノ御疲労ハ出マセンカ。

 今日ハ、余リ可笑シイカラ、オ寺ノ様子ヲ、一寸書イテ見マセウ、此ノ寺ノ和尚サンハ、 例ノ天下道場伊深デ修業シタ人、機鋒中々鋭イガ只、覇気余リアリト 云フ訳カ、少々、ヤルスギタンデスネ、ソレカラ、坊サントイフ者ハ、通ジテ実二細カイ、「モツタイナイ」ヲ通リコシテ、「リンショク」ト云フ方二、ナリカ ケノモノデスネ。
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(以下、意訳します。)

 この寺の和尚は、米、炭、味噌の使い方まで一々と指図をし、百丈和尚の「一日不作一日不食(一日働かなかったら一日食べない)」という言葉を日に二度も 三度も聞かされ耳が痛くなっています。

 朝は4時起きと5時起きがあり、4時に起きるのは中々堪えます。台所仕事、お使い、庭掃除と雑用を全てやらされています。ちょっと、火鉢のそばに座って い ると機嫌が悪いのですが、そうもいっていられず火鉢のそばに座って皮肉をいうのですが、さすがに禅宗の和尚だけに面白い話になります。
 今年58歳の和尚は、足が悪く座敷の上でも杖をついて歩いているような状態なのに一人前の仕事をこなしていて感心しています。あれで足が完全だったらど れ ほど仕事をするのでしょう。
 この寺の板の間は非常に広く、四つんばいになって拭くのですがすっかり疲れます。

 さて、本題ですが、困っているのは前にお話したように、ここの和尚が少し横暴すぎて十ヶ所ばかりの末寺の和尚全員から反発をされ、末寺を離脱すると本山 の妙心寺にまで申し出られた結果、和尚はこの春に住職の名義を取られ末寺の和尚が住職となっています。
 今の和尚は居候のようなものとなっており、末寺の連中は早く出て行ってくれと待っているのですが、二年すれば住職に復するとの文書があると言って寺を出 ないで がんばっています。私はこんな事情を何も知らずに来てしまいました。末寺の坊さんは「あなたは大変なところに来ましたね。あの坊さんでは勤まらんでしょう から早く京都に帰りなさい」と言うような有様です。
 まだまだ、困ったことがあります。和尚は収入がなく、日常の買い物の代金などを払っていないので、借金取りがゾロゾロときます。この借金取り を断るのが私の仕事となっています。この間の支払いの時には妙策と「支払いは二十日にしてください」と大書して張り出しましたが、二十日に払えることや ら、多分払えないでしょう。そのときの和尚の新たな妙案は今から楽しみでもあります。
 他にも大口の借金があるようで利子の催促にきているものもあるようです。
 金策のために、先日はつまらぬ掛け軸を100本ばかり、重いのを我慢して某所まで担いで行きましたが金にはなりませんでした。また、和尚が建て増しをし た という建屋を担保にしてお金を借りるように役所に登記のことで私が数度行きましたが、檀家や本山の承諾なしにはできないとのこと、いよいよぎりぎりの状態 です。

 そんな状態ですから、米がつぼに半分、味噌は桶に半分、炭は俵に三分の一ほどあります。もう此れだけです。何も買えません。毎日のおかずは大豆の残って いるのを煮て食べています。味噌汁には裏の畑の三つ葉と筍(今は真竹)を灰汁抜きをして入れています。
 ここに来てから、毎日毎日同じことを繰り返しています。「シンプルライフ」です。
 あんまり毎日、硬くなった筍を食べているので腹の中に藪ができていないかと心配です。それと大豆を毎日毎日食べるので鳩ポッポのようで、和尚に「この豆 は 鳩が好きですね」と皮肉を言っても「そうじゃ、そうじゃ、鳩の好物じゃ」とすましています。
 面白いような、情けないような話です。
 この度の俳句には筍の句が多いのは右のような事情によります。お察しください。堅くて味もない・・・
 どのように収まっていくのか、お米もだいぶ少なくなってきているので近いうちに局面が一転することと思います。そのときはまたお知らせします。

◇筍や豆の句
 常高寺での句から筍と豆の句を。


 豆を水にふくらませて置く春ひと夜
 眼の前筍が出てゐる下駄をなほして居る
 豆を煮つめる自分の一日だった
 藪の中のわたしだちの道の筍
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