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08/12/26 我慢は美徳
  私はいわゆる「段階の世代」ですが、「団塊の世代」という言葉が好きではありません。
 「団塊」って泥の団子のようなイメージを持ちます。また「世代」と一括りにされることも好きではありません。

 地方の貧しい農村の二男坊として育った私は、我慢することが美徳であるように育ってきました。
 我慢することは自分の意見を表明しないことと同義です。
 親、兄弟はもちろん、近隣の人たち、教師らに対して従順であることが「良い子」でいられる処世術でした。

 そんな風に育った子どもは長じて、それまでの生き方への反発なのか、政治活動や労働運動をはじめました。しかし、そのような活動も主流についていれば波 風も立てず出世にプラスになったことでしょうが、少数派、反主流派にいては「アカだ」「生意気だ」と要注意人物として差別されてきました。
 昨年末には、実質的な指名解雇(形式的には整理解雇)で馘首されてしまいました。
 凡人が、自らの主義主張を曲げずに生きていくことは、我慢することが美徳であるという考えが根強くある社会ではとても生き難いことです。

 凹みがちな時に、時々紹介する小児科医の毛利子来さんが「マガジン9条」のコラム「狸穴から」に「『甘えるな』の構造」 と題して声をあげて闘うことが大事だと書かれていました。

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 どうやら、日本は、「甘えを許さない」社会なのだ。そのことで、多くの人々の自立を妨げ、苦しめてもいるのだ。
 しかも、その一方で、強い立場にある者には、存分の「甘え」が許されている。より弱い者に対しては、勝手なことができる仕組みになっているのだ。
 なんという差別。
 こんな非情な構造は、根本から、打破されなければなるまい。
 まずは、弱い立場の者が、「甘えを許さない」ことに対して、ひるまず闘いを挑む必要があるだろう。
 もちろん、べったりの、自主性を欠く「甘え」はいただけない。だが、正当と思う主張まで、「甘え」といわれて、すごすごと引っ込める手はないだろう。
 その点で、最近の不当な解雇に対する労働者の果敢な闘いは、貴重だ。
 まだまだ力は弱いが、「甘えるな」の構造を打破する第一歩として、期待される。
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 無用の争いは避けたいですが、人としての尊厳を踏みにじられるようなことには声をあげましょう。
 闘うときには闘わねばなりません。

 私は軽いうつ状態ですが、子供の頃よりの習い性となっている「我慢は美徳」だとの意識が心の病気の遠因にあるのではないかと思っています。
 病気になったり、死を選んだりする前に声をあげましょう。
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