09/10/16 窪島誠一郎「信濃絵ごよみ人ごよみ」
JR西日本は福知
山線脱線事故の真相を隠しどのような結果を導きたかったのでしょうか?
例えば、
◇安全設備は満足とは言えなくも十分だった。
◇運転ダイアは過密ではないゆとりあるものだった。
◇事故は予見できなかった。
◇金儲けより乗客の安全を最優先していた。
◇社員教育は適正に行われていた。
◇事故の原因は偏に運転士の個人的な資質にあった。
JR西日本が学識経験者、国鉄OBなどを事故調査委員会の意見公聴会の公述人に応募するよう依頼し、自社に有利な公述を依頼したり現金を手渡したりする
工
作をしていたことが報道されています。「福知山線脱線:JR西、4人に公述人依頼 発言修正も要求」(毎日新聞 09/10/15)
この工作にも山崎正夫社長(当時)が積極的に関与していたとも報じられています。
彼らを罰する法律はないのでしょうか?
窪島誠一郎さんの「信濃絵ごよみ 人ごよみ」を紹介します。窪島さんの本を読むのは初めてで
した。
チリの英雄的な詩人パブロ・ネルーダなどの訳詩をされていた大島博光さんの記念館(大島博光記念館)が
長野市松代地区にあることを知りました。
また、松代には先の戦争末期に本土決戦に備えて日本軍の最高司令部(大本営)や皇居を移転するための地下壕が作ら
れていて、今は一部が公開されているそうです。
大島博光記念館と松代大本営跡を自転車で巡ってみようかと付近の立ち寄り先を探していました。上田市に戦没画学生の遺作を展示した無言館という美術館がありました。
無言館を作られたのが水上勉さんのご子息の窪島誠一郎さんです。水上勉さんとの親子関係
は複雑で、出生後捨てられ?三十数年後に再会されたそうです。
こうして窪島さんの本を読むことになりました。
窪島さんは長野県に一人住まいだそうです。「タオ―老子」の加島祥造さんも伊那谷に一人住まいをされています。長野県は老
人に優しい町でしょうか?窪島さんは1941年生れですから老人というほどでもありませんが。
奥付に書かれた窪島さんの略歴
-----------------
信濃デッサン館・無言館館主、作家。1941年東京生まれ。印刷工、店員、酒場経営者などをへて、1965年東京世田谷に小劇場の草分けともいえる
「キャット・アイラック・アート・ホール」を設立。1979年長野県上田市に《夭折の画家》の素描を展示する美術館「信濃デッサン館」を創設。1987年
ニューヨーク州ウッドストックに「野田英夫記念美術館」を創立。1997年には信濃デッサン館の隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を創立。
-----------------
いろいろな経歴をお持ちの方です。
長野県に二つの美術館を持ち居を構えた方の交友録、身辺雑記、美術館、美術展巡りなどのエッセイ集です。
そんな中からいくつかの話を紹介します。
◆通過駅
東京に家族を残し上田に住んで講演などで各地を行き来していて新幹線の上田駅には止まらない特急があるそうです。ホーム
で通過列車を待っているのがお好きだそうです。
また、自宅の最寄り駅は小田急の成城学園だそうです。成城学園駅は特急も止まるが、少々不便でも各駅停車しか止まらない京王線の仙川駅を利用されている
そうです。
成城学園駅、仙川駅、懐かしい名前です。三十年近く前のこと、調布市にあり成城学園駅からと仙川駅からの中間あたりに会社の研修センタと付属の寮があり
6ヶ月ほど研修を受けていました。
都心へ出るのに、賑やかな成城学園より住宅街を抜ける静かな仙川駅を利用していたことを思い出しました。
------------------
たぶん人間社会にも同じことがいえるのではなかろうか。私たち第一期団塊の世代は人を追い越せ追いぬけで育てられてきたが、近頃何となく、そんなにムリ
して人を追い越して何になるんだろうという気持ちになっている。通過駅を猛スピードで通り過ぎる列車の後ろ姿が、どことなくさみしげにみえはじめた年代な
のである。
------------------
そうですね。「そんなに急いでどこに行く?」でしょう
か。
◆消息不明
葬式はするな、荼毘の後は「葬送の自由の会」にお願いして散骨して欲しいと自分の死後の手続きについて子どもたちに書き置いていますが、それは残ったも
のに大きな負担をかけることだろうと思っています。
------------------
それならいっそ、自分の死期が迫ったある日(あるいはそのだいぶ前に)、だれにも行き先をつげずにふいに消息を絶って、どこか見知らぬ土地に一軒家でも借
りて「客死」したいというのが私のあこがれなのである。
------------------
老いて、家族を置いて一人暮らしをされている人は皆さんそのような願望があるのでしょうか?
今際の際に、手を握られて死ぬなんて真っ平です。象のように死期を悟ったら早めに退場する、そんな死に方をしたいものです。
◆傘ギライ
大昔に付き合っていた女性は洋画かぶれか土砂降りでなければ傘をささずに出歩く人でした。その人に影響されたわけでもないのでしょうが雨の中を傘をささ
ずに歩くことは好きで、なるべく傘をささずに歩いています。
------------------
考えてみれば、子供の頃は雨の日がたのしかった、学校帰りに大口をあけて雨をうけとめたり、ワザと水溜りにとびこんだり、何だかとても心が昂揚した。雨
で運動会が中止になったり遠足がのびて臨時休校になったりすると、一日じゅう家の窓から雨のおちる地面をみつめていても飽きなかったものだ。昔は、もっと
もっと人間と雨は仲がよかった気がするのである。
私の「雨ギライ」は、そんな雨に対する中年男の郷愁の一つなのかもしれない。
------------------
子どもには雨も水溜りも魅力的な存在です。台風などはワクワクするような楽しみでした。
窪島さんは私同様に暗い少年だったみたいですね。
私は雨戸の穴から障子に映る絵(ピンホールカメラの原理で映る絵)や庭の蟻の行列を日がな一日見ていたりしていました。
◆旅
長野県には温泉も多く、湯に浸かり美術館などを巡るサ
イクリング、冬の青春18切符の時期には積雪でサイクリングは無理かも、でも寒い時期の温泉もなんとも
いえません。じっくり計画して出かけてみたいものです。
|
|