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10/08/03 井上ひさし「一週間」

 推理小説に使った らリアリティに欠けると不評を買うことでしょう。
 100歳を超えた老人の所在が判らない事件があちこちで起こっています。家族に悪意があったか否かに関わらず一人の人間の生死が何年にも渡って判らない ということがあっていいのでしょうか?

 人間の尊厳とはこの程度のものなのでしょうか?先進国といわれるこの国の実情でしょうか?


  久しぶりに長編を読み切りました。井上ひさしさんの遺作となった 「一週間」です。
 「一週間」は
小説新潮に2000年から2006年にかけて数度の中断をはさみながら連載されてもので、連載 終了後に井上ひさしさんによる改稿を経て出版される予定になっていたそうですが、井上ひさしさんが本年4月に亡くなられたために存命中には実現しなかった ものです。

 1946(昭和21)年早春のシベリア日本人捕虜収容所に収容されている小松修吉の身に降りかかる一週間の出来事を描いた冒険活劇風の物語です。
原 稿で900枚、単行本で500ページを超える「吉里吉里人」 に匹敵する長編大作ですが、面白くてぐいぐいと引き込まれて読みました。

 非合法であった共産党の活動家であった小松修吉は、党内に潜入した特高のスパイMの手引きによって逮捕され拷問を受け転向します。その後、Mに報復すべ く満州に渡りMを探しながら満州映画協会哈爾浜(ハルビン)支社で巡回映写班として働いていた時1945年7月、ソ満国境の町で守備隊に入れられソヴィエ ト軍の侵攻にあい 捕虜となります。

 ハバロフスクの捕虜収容所に収容された修吉の仕事は、収容所から脱走し捕らえられた日本人軍医から脱走の顛末を聞きだし脱走を抑止するための日本人捕虜 教化用の小冊子に編集することでした。
 軍医が脱走行に手に入れたレーニンが友人に宛てた手紙を預かることになります。手紙にはソヴィエト革命の根底を揺るがすことが書かれていました。
 ソヴィエト軍の将校たちはあらゆる手段を用いてこの手紙を奪おうとしますが、修吉はこの手紙を利用して捕虜の待遇改善を要求していきます。

 
日本人の孤児で捕虜収容所の賄い主任をしているハル・ステゴヴナと娘のソーニャ、大学の 日本語学科を優秀な成績で卒業しているソヴィエト軍将校らが絡んでハラハラドキドキと話は進んでいきます。

 その中で、考えさせられる事実が散りばめられています。

◆日本軍は捨てられた
 満蒙開拓団の人々が、ソヴィエトの進攻時に棄てられたように、関東軍も棄てられていたのです。
 1945年8月19日に行われたソヴィエト軍と関東軍の停戦会談の中で日本人参謀が「日本内地の都会は空襲によってそのほとんどが廃墟と化してしいる。 その上、今年は何十年来の凶作という予想が出ており、食糧が絶対的に足りない。さらに船も足りない、石油もない、そこへ海外から同胞が700万人も引き上 げてくる。受け入れ態勢が整うまで、日本人捕虜を満州国あるいはソ連邦の極東地方にとどめておいてくださいませんか」と懇願していたそうです。

◆ハーグ陸戦条約
 日本軍は将兵に戦陣訓として「生きて虜囚の辱を受けず」のような教育をし、交戦規定や俘虜、停戦、降伏などを規定した国際条約のハーグ陸戦条約(陸 戰ノ法規慣例ニ關スル條約)について教育をしてこなかったために、捕虜となっても自らの権利を主張することもできずいました。
 同じソヴィエトに捕らえられたドイツ軍捕虜は祖国の家族と文通や慰問物資を受け取ったりしていたそうです。

◆旧軍の組織の利用
 ソヴィエト軍は、収容所内の自治を旧日本軍の将校に委ねたために、旧態依然の上下関係が存在し将校は兵士の食糧を掠めとり、兵士を侍らせ南京虫を一晩中 追わせ、靴を磨かせ、便所の紙を持たせ、タバコの火を点けさせるなど下男のように使っていました。十分な食糧もなく腹が減るのにノルマの労務は私用に使わ れている兵士の分まで果たさなければならないのでした。
 下級兵士の犠牲の上に、ソヴィエト軍と日本軍将校の利害が一致した収容所の管理方法でした。

 旧軍の将校に従卒制度を止めされるように論陣を張った兵士が、いろいろの嫌がらせの末に殴り殺された兵士の話も出てきます。
◇ソヴィエト軍将校
 「大日本帝国の軍隊制度の中枢部に階級的身分差別思想と非人間的な隷属関係が織り込ませているということ。つまりこれこそがこの大橋吾郎元二等兵撲殺事 件の真犯人だったのだよ」
◇小松修吉
 「そういう言い方をされるなら、こちらにも言い分がありますが」
 「犯人はほかにもいます」
 「あなた方のお国にですよ。もっと言えば、ソ連邦のずる賢さ。それが大橋さんを殺してしまったのです」

東北人
 小松修吉は1904(明治37)年山形県生れです。「吉里吉里人」もそうでしたが、東北人はしなやかで強かで機転が利きユーモアがあります。
 絶体絶命の危機にも知恵を働かせてソヴィエト軍将校のギャフンと言わせます。
 中年の風采が上がらない男の活躍に拍手ですが、結末は思いどおりにはいきませんでしたが。

◆書評など
 井上ひさしさんとともに「九条の会」の呼びかけ人である大江健三郎さんが新潮社のPR冊子「波」7月号に「小説家井上ひさし最後の傑作」と題した書評を書いておられます。
 また、朝日新聞には作家の江上剛の書評「一週間 [著]井上ひさし」(10/08/01)も参考になります。

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