10/08/15 敗戦記念日
敗戦の日の今日、
私の住む町でも戦没者追悼のサイレンが正午に鳴らされました。
<あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさ
びしげにいふ>
先日読んだ鶴見俊輔さんの「ちいさ
な理想」という本に載っていた歌です。
「『殺されたくない』を根拠に」という章を少し引用しま
す。
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私は、土岐善麿の
戦後の始まりの歌を思い出す。一九四五年八月一五日の家の中の出来事を歌った一首だ。
あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
明治末から大正にかけて、啄木の友人として、戦争に反対し、朝鮮併合に反対した歌人土岐善麿は、やがて新聞人として、昭和に入ってから戦争に肩入れした
演説を表舞台で国民に向かってくりかえした。そのあいだ家にあって、台所で料理をととのえていた妻は、乏しい材料から別の現状認識を保ちつづけた。思想の
このちがいを、正直に見据えて、敗戦後の歌人として一歩をふみだした土岐善麿は立派である。
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各紙の社説をWebで読んでみました。土岐善麿(とき・ぜんまろ)のように国民を戦争へと煽った自らの責任を問う社説は
ありませ
んでした。
東京新聞の社説(終戦の日に考える 歴史は沖縄から変わる)は「歴史は沖縄から変えねばなりま
せん」と書いています。
日本がなぜアメリカに依存し続けるのか、その体質はどこからきたのかと問いの答えは昭和天皇であると、豊下楢彦関西学院
大学法学部教授の「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代文庫)から引いています。
敗戦で天皇が直面したのは自らの戦争責任の訴追と天皇制の崩壊でした。マッカーサーの協力で極東裁判を免れ、新憲法下で象徴となった天皇の新たな脅威は
共産主義でした。昭和天皇にとって日本を守ることと天皇制を守ることは同義であったのです。
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非武装が日本の最大の安全保障とする理想主義のマッカーサーに対して昭和天皇はリアリストでした。憲法九条や機能不全の国際連合では日本を守れず、米軍
依拠の天皇制防衛の結論に至ったといいます。
かくして、「米軍駐留の安全保障体制の構築」が昭和天皇の至上課題となり、象徴天皇になって以降も、なりふり構わぬ「天皇外交」が展開されたというのが
豊下説の核心部です。
-------------------(引用)
天皇制、すなわち自分の身を守るためにアメリカ軍庇護の下においたとは信じられないような話です。
象徴天皇の国事行為は憲法によって許されていないはずです。
「天皇外交」の例として挙げられているのは、昭和天皇が沖縄を棄てたことが書かれています。
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例えば一九四七年九月、宮内省御用掛寺崎英成を通じてマッカーサーの政治顧問シーボルトに伝えられた有名な天皇の沖縄メッセージは「米国による琉球諸島
の軍事占領の継続を望む」「米国による沖縄占領は共産主義の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」などの内容。沖縄の戦後の運命が決定付けられてし
まったかもしれません。
-------------------(引用)
1947年5月3日に新憲法は施行されているにも拘らず、9月に昭和天皇は共産主義から日本を守るため即ち天皇制を守るために沖縄を売ったのです。
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豊下教授は、もう一つの戦後史・安保体制という新たな「国体」を描き出しますが、独立国をめざす気概が存在した当時の外務省、もし天皇外交がなければ日
本外交は選択肢の幅を広げ、より柔軟なダイナミズムを発揮し得たと想像します。安保の呪縛(じゅばく)は戦後の日本外交から矜持(きょうじ)も気概も奪い
ました。
-------------------(引用)
昭和天皇は自身の安全のためには日本は独立国でなくてもよかったようです。
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