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12/08/09 被曝者の講話

 今日は長崎忌、11時2分には電車で移動中でしたので、車中で一 人黙祷をしました。阪急京都線の車中では他に黙祷している人はいなかったようです。

 明日は10日の金曜日です。定例の関西電力本店前での抗議デモが行われますが、明日は父の墓参で滋賀に帰省するため大阪の関電本店前には行けませんが、 関電京都支店はJR京都駅前ですから参加できそうです。
 東京電力の福島第一原発の事故直後の現場と本店とのテレビ会議が公開されているようですが未見です。色々と闇があるようですが是非見てみたいものです。

 先ほど、野党7党が共同提案した野田内閣不信任案は民主党からの新たな「造反」も無く、自民公明は昨夜の民自公の党首会談で手打ちが済んだようで「賛 成」者無しで否決されました。
 否決はされましたが、国民の生活を守らなければならないここ一番では、大異を捨てて小同で一致できる共同行動ができるようなって欲しいものです。共産党 が言っている「確かな野党」のあるべき姿です。

 さ て、8月4日に広島に向かい、プロ野球を見て一杯飲んで宿に帰ったところまで書きました。その続きを書きおくことにします。

◆予定は未定
 明けて5日、寝不足が続いていたこと前日の7時間の旅が堪えたのでしょうか、7時を回って芽が醒めました。2泊で1万円を切るビジネスホテルですが朝食 がついていました。

 久し振りにゆっくりと朝食をいただきました。ビュッフェスタイルの食事も久し振りでした。
 大したものがあるわけではありませんが、十分満腹になって部屋でホームページなど更新している内に9時を過ぎ、岩国まで来たのだから錦帯橋でも、或いは 岩国基地を見通せるところから、悪名高きオスプレイを見ておこうかとの予定を即変更し広島へ。

◆平和公園
  平和公園では翌日の祈念式典の設営が進められています。
 まずは、原爆の子の像へ。原爆の子の像のモデル佐々木禎子さんは2歳の時に被曝しわず か12歳で原爆のために亡くなっています。禎子さんのことを歌った 歌「祈り」は歌 手のクミコさんが紅白でも歌われたとのことです。
 禎子さんの像の周りにはたくさんの折り鶴が捧げられています。その折り鶴をバックに記念撮影の外国人など。




 慰霊碑前にはたくさんのパイプ椅子、臨時の櫓の上には報道のカメラがセッティングされています。
 横手からお祈りをして、平和記念資料館に向かいます。大勢の人でチケットを買うのに並ばなければなりません。

◆平和記念資料館

 展示を見て回って印象に残ったのは母と小学生低学年の少女が、火の手が迫る中に立つ熱 線で焼け爛れた少女の像の展示の前で立ちすくみ母親の手をきつく 握っていた場面でした。

  twitterの「サダコ bot ‏@S_Sadako_bot」というアカウントの呟き「弱虫?いいえ。原爆資料館を見学して、あなたは今、変わろうとしているの…。」 を思い出しました。

  地下1階では「はだしのゲン」の原画が展示されていました。若い頃「はだしのゲン」を読んだ時には顔の皮膚が焼けただれて溶 けたようにぶら下がるなど誇 張した表現だと思っていましたが、現実はもっと酷い地獄絵のようだったのです。

◆被曝体験講話会
 被爆者の講話のプログラムには少し時間がありましたが、涼しい会場に入って待つことにしました。
 今日の話してくださる被曝体験者は川本省三さん。

 当時の広島の子どもたちは大雑把にはこんなふうだったそうです。

@小学2年生より小さな子どもは親と一緒に広島で暮らしていた。禎子さ んやゲン。
A3年生以上の小学生は広島から50キロ以上離れた町に集団疎開をしていた。川本さんら。
B勤労動員に行っていなかった中学生は空爆(空襲)に備えて道路を拡副するための家屋の取り壊しに駆り出されていた。

  今回はAの子どもたちの戦後の話です。
 疎開先にひとり生き残った姉が行方不明の父と姉を探すために川本さんを迎えに来たのは原爆投下後3日目のこと。焼け野原の広島に帰り姉としばらくは暮ら したそうですが、頼りにしていた姉も白血病で死に原爆孤児となりました。

 その後、叔父に引き取られ、その村の有力者に見込まれて醸造会社で働くことになり、成 人した川本さんに親方は一軒の家を建ててくれたそうです。仕事もあ り、家も持てた後は好きな人と結婚するだけという段になって、広島の人間は被曝しているから結婚はさせられぬと相手の親に反対されたそうな。
 やけになった川本さんは醸造会社を辞め、建てて貰った家も捨て広島に戻ったが小学卒業、身寄りなしの人間が生きて行くには大変なことだった。
 多くの原爆孤児たちは、ヤクザの世界に生きる道を求めるものも多かったそうです。抗争に巻き込まれ死んで行く人も多かったとか。

 食えない川本さんは、自分のことを知らない町で生きて行こうとしたが、金がなく岡山までしか行けなかった。岡山で食堂に住み込み働きに働き、50人ほど の従業員を抱える会社を経営するほどになられた。
 疎開時代の仲間の誘いもあって晩年を広島で過ごすことにしたが、原爆孤児のことが記録にないことから自分が語り部になろうとされたそうですが、昔の仲間 から「生きるために人の物も盗って食ったような時代のことを離さないでくれ」と言われたそうです。

 会場内には啜り泣く声があちこちから。

 私の筆力ではあまり伝わりません。下記の新聞記事をご参考に。

◇「被爆者の川本さんの体験が原爆漫画に ごとうさん描く」(中國新聞 2010/06/29)
 この記事に出てくるごとう和さんが川本さんをモデルにした「母 ちゃんの祈り」が出版されています。

◇「仲間への祈りを乗せて 原爆孤児悼み『折り鶴ヒコーキ』」(朝日新聞 10/08/04)
 この記事に出てくる紙飛行機を小さな子どもたちにプレゼントされていました。

 川本さんの話で気になったこと。

◇原爆投下後、3日で広島に帰られた川本さんは入市被曝をされていると思うのですがお話には出てこなかった。
◇1945年9月の枕崎台風で死臭や腐敗臭とともに放射能も洗い流されたと言われていました。
 雨で流れることはあるでしょうが、徐染できるとは思えませんが。
◇福島原発事故について、各兵器も原発も同じだと言われていましたが、助け合うためにはガレキの処分を全国で引き受けなければならないと言われていたこと が残念でした。放射能を拡散する意味は?

 この続きはまた。
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