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12/08/15 敗戦記念日に思う

 今日は67回目の敗戦記念日です。

 日本が侵略したアジア諸国では日本が降伏文書に調印した9月2日など を含めこの時期の一日を対日戦勝記念日(韓国では光復節)としているそうです。侵略された当事者が侵略支配に打ち 勝った日としているのに、一方の当事者が「終戦」記念日と言っているのはどうでしょう。「敗戦」記念日とした方が正しい歴史の認識ではないかと思います。

ナ チスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧した時、私は不安に駆られたが、
自分はコミュニストではなかったので、何の行動も起こさなかった。
その次、ナチスはソーシャリスト(社会主義者,労働組合員)を弾圧した。
私はさらに不安を感じたが、自分はソーシャリストではないので,何の抗議もしなかった。
それからナチスは学生、新聞人、ユダヤ人と、順次弾圧の輪を広げていき、
そのたびに私の不安は増大したが、それでも私は行動に出なかった。
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。
そして私は牧師だった。
だから行動に立ち上がったが、その時は、すべてがあまりに遅過ぎた。
マル ティン・ニーメラーの言葉より
出版 ユニオン京都のWebサイトより

 上の言葉(詩)は良く聞いて覚えておられる方も多いと思います。
 上の言葉を原発に置き換えてみればこんなふうになるのでしょうか。

原 発反対の住民運動が闘われていた。
けれど、それは遠い土地のことだったので、私は何もしなかった。
関西電力の本店前で、鐘や太鼓を打ち鳴らし「原発は要らない!」と叫んでいる人たちがいた。
けれど、それはヒッピーやカルトのように私には見えた。だから私は関わらなかった。

故郷の60キロ圏にもいくつもの原発が建設された。
国や電力会社が「安全だ」と言っている。
無理に反対するほど私には知識も知恵もなかった。だから何もしなかった。
全国の原発立地の町では激しい反原発の住民運動が闘われた。
駆けつけて運動の輪に加わる勇気が私にはなかった。

そして、54基の原発が建設された。

そして、フクシマが起こった。
私は怯えた。
でも、もう取り返しがつかないほどにこの国は汚されてしまった。

あの時、遠い町に出かけ「原発は要らない!」と一緒に叫んでいたら。
否々、遠くの町に出かけなくても「原発は要らない!」と小さな声を挙げていたら。
私にほんの少しの勇気があったら。

気がつくのが遅すぎたけれど、私は負い目を持って抗議のデモの輪に加わっている。

先の侵略戦争に生命を賭けて反対した人たちがいた。
でも、私の父も母も侵略戦争に反対しなかった。
私が、父や母に「何故、戦争に反対しなかったの?」と詰ったように、
次世代の子どもたちから「どうして54基もの原発の建設を止められなかったの」と詰られるだろう。

胸を張ることはできないが、遅すぎたけれど二度とフクシマを繰り返さない反原発の輪に加わったと。
未だに私には知識も知恵も勇気も乏しいけれど、
生きている限り「反原発!」「原発は要らない!」と叫び続けよう。贖罪の意味を込めて。

 54基の原発が建設された過程と、先の侵略戦争に進んでいったことの轍は酷く似ているように思う。
 権力者や施政者、資本家の企みを私たちは深く考えないでただぼんやりと眺めていたら、自分たちも加害者の一人になっていた。75年前は侵略戦争、今は放 射能汚染、生命を奪われるのはいつも弱いもの。

 次の呼びかけを全面的に支持します。
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 日米安保条約を廃棄してこそ、基地問題の解決の道も、日本と東アジアの安全保障の道も開かれると確信し、その展望を示した「外交ビジョ ン」を発表しています。安保条約をなくして、ほんとうの独立国といえる日本、憲法9条が輝く平和日本への道を切り開くことを心から呼びかけます。
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 これは共産党の市田書記局長が終戦記念日にあたって発表した談話の「日本共産党は、日米安保条約を・・・」と続く一節でした。

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