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00/03/04 父の肖像(1)
 私の父は、生まれ故郷の滋賀県 の農村に、母と兄夫婦と一緒に暮らしています。加齢とともに病気との付き合いが頻繁になったり、孫やひ孫の名前を間違ったりすることもありますが、彼の人 生で一番ゆっくりとした時間を過ごしています。

 父の半生を文章にまとめようと父や母からの聞き取りなどの準備をしていますが、中々進まず取りあえずのダイジェスト版を2回に分けて書いて見ます。

 父は、1912年(大正元年)10月25日に貧農の長男として生まれました。翌年の1月には父を失い、貧しい生活はますます貧しさを増しました。
 貧農の俗称である「三反百姓」そのままに三反(30アール)の田圃を祖母が一人で耕し、少ない収穫の米を売ってその金で味噌醤油を買うだけの貧しい生活 でした。
その貧しさについて父は「当時はみんな似たり寄ったりの生活をしていて我が家だけが特別ではなかった。」と言っています。

 祖母は、百姓仕事の合間に今で言うところのパートタイマーとして近所の手伝いをしたり日雇いの仕事をして生計を立てていました。
 その頃の父と祖母の楽しみは、祖母の実家への盆正月の帰省でした。祖母はもともと身ぎれいな人でしたが、早朝から晴れの身支度をして数キロの道を歩いて 行ったそうです。

 15才で尋常高等小学校を卒業し、信用購買販売組合(今の農協のようです)に就職しましたが、まもなく肝臓を患い組合を退職せざるを得なくなりました。
 自宅の居間で麻酔も無い状態で手術を受け、寝たきりの2年間の療養生活が始まりました。父と祖母にとっては、薬代、手術代と費用も嵩み、極限状態の貧し さであったと思われます。
 父の身体には今でも指1本が入りそうな手術痕と床ヅレの痕が強く残っています。私には想像できない闘病生活だったのでしょう。

 やっと歩ける程度に回復した頃、人の紹介で村役場の滞納された税金を取り立てに行く仕事に就きました。人の嫌がる仕事でも生死の境をさ迷った家族にはか けがえのない仕事でした。
 不自由な足で村内を歩くことは無理でしたから、中古の自転車を買い必死で練習をしたようです。

 少ないとはいえ毎月きちんと現金収入のある生活は、祖母にとって夢のようだったことでしょう。
 二人の家族にとって新しい出発でした。父18歳の時でした。

 父の誕生から青年期はまさに波乱万丈の時代でありました。次回は比較的安定した壮年期を書いてみます。
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