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05/03/25 井上 ひさし「不忠臣蔵」(その3)

 再び三度、井上ひさしさんの「不忠臣蔵」を取り上げます。
 今回で、吉良邸への討ち入りに参画しなかった「不」忠臣19人の大雑把な紹介は終わります。
 もう少し読み込んで、違う切り口で取り上げられたら楽しいなと思っております。

◆近習・村上金太夫
 ◇語り手:髪結・徳治
 ◇聞き手:毛利家家中・鵜飼惣右衛門(前原伊助の介錯人)
 ◇場所:本所回向院裏弁財天前
 弁財天前で髪結の客待ちをしていた徳治の前に一人の侍が現れた。徳治が話す世間話。

 本所回向院裏の長屋では年に一度、井戸掃除の日に大家からの酒肴が出て飲めや歌えのお祭りのようになり住民の楽しみです。昨年は酔っ払った連中が、弁財 天の床下に潜り込ん でいた乞食を、泥棒と間違って殺してしまって一気に酔いがさめたこと等とりとめも無く話しています。

 また、吉良上野介が本所に越してきてから、赤穂の浪人が吉良邸をいつ襲うのか、赤穂の浪人には親切にしてやらねばと言い合っていましたが、ある日突然討 ち入り事件が起こりました。
 吉良邸から引き上げる赤穂の浪人の後を追いかけていくと、見知った顔がいくつもあった。呉服屋・米屋五兵衛の襟の白布には前原伊助と書かれていました。

 徳治の客の侍は実は、前原伊助の介錯人で前原伊助から頼まれて村上金太夫の死に場所を拝みにきたと言う。金太夫は乞食に身をやつし吉良邸の抜け穴の在り 処を探っていたが泥棒と間違えられて殺されていたのでした。

◆江戸留書役・大森三右衛門
 ◇語り手:信州上田千石家大納戸方・竹村一学
 ◇聞き手:大森三右衛門
 ◇場所:両国西広小路・菓子見世兼蕎麦見世 丸屋店内
 信州上田千石家内証用人・弓削佐次馬は無類の蕎麦饅頭好きで、江戸市中に150軒もあると言う菓子見世兼蕎麦見世を食べ歩いています。

 あるとき、南八丁堀の小松屋で、こちらも蕎麦饅頭好きで大食い自慢の赤穂浪人・大森三右衛門に出会います。我こそはという二人は、食べ比べをしますが佐 次馬が負けて「赤穂浅野家には変人奇人が多いとみえる」「饅頭を大食して平然たる奇人があれば、せっかく殿中で抜刀なさっておきながら憎い相手の息の根を 止めることがおできにならなかった変物もおいでだ。突くか、刺せばよいものを、小サ刀で斬りつけられたとか。いやはや話にもならぬわ・・・」と囃してしま い、三右衛門に斬りつけられて死んでしまいます。

 佐次馬の妻や子と弟・竹村一学は敵討ちのために、三右衛門が立ち寄りそうな菓子見世兼蕎麦見世を虱潰しに探して歩いています。
 遂に、一学は西広小路の丸屋で三右衛門を見つけ出します。

 三右衛門は「主君の恨みを晴らすまで数日の猶予をくれ」と懇願しますが、懇願すればするほど矛盾することに気づき「自縄自縛だ」とつぶやきます。

 この章では、蕎麦に関わる食べ物が色々と出てきます。蕎麦饅頭、蕎麦切り、蕎麦練(がき)、蕎麦焼餅、蕎麦落雁、蕎麦保宇留(ぼうろ)、蕎麦板、みんな 美味しそうですね。
 菓子見世兼蕎麦見世とはどんなお店だったのでしょうか、喫茶店、食堂??

◆舟奉行・里村津右衛門
 ◇語り手:里村津右衛門
      :浅野家勝手吟味役・間喜兵衛の次男・新六
 ◇聞き手:間喜兵衛、新六、津右衛門
 ◇場所:江戸新麹町平河天神裏の間喜兵衛の家
 浅野家断絶が決まった時に、津右衛門が神文返しに応じたことを小賢しい腰抜けと言う喜兵衛の江戸の隠れ家に津右衛門が訪ねてきます。

 「殿中で刀を抜けば、身は切腹、城取り上げで家臣は路頭に迷うこと は自明の理、誰一人として仕合わせになったものはない」「天下のご法に反して上野介の首級を取るなどと大石も同じことをする、残されて泣くのは女だ」と言 い切ります。
 今では丸亀近くで塩浜(塩田)の親方となっている津右衛門は、赤穂の浪人に丸亀で新しい生活を始めようではないかと説きます。

 元里村家の養子であった新六の小賢しい腰抜けとの激しい罵りに腰抜けでないことの証のために自害して果てます。

◆元ノ絵図奉行・川口彦七
 ◇語り手:肥後細川家接伴役・林兵助
 ◇聞き手:浅野家筆頭国絵図奉行・潮田又之丞
 ◇場所:肥後熊本細川家芝白金・江戸下屋敷
 川口彦七は優秀な測量・作図の技術者でしたが、内匠頭の勘気に触れて浅野家から暇(いとま)をとらせられます。(解雇されてしまいます)

 赤穂をはなれた彦七は、江戸の公儀表絵師・狩野良信の下で、公儀御用の「日本絵図」作図に関わっていました。
 顔をつぶされた川口彦七らしい死体が両国橋の下で見つかり、死体が持っていた絵図面と作図道具から、狩野良信が彦七だと確認しました。

 久造という男が彦七殺しの下手人として捕まりますが、厳しい拷問による取調べにも自白しません。ところが、新入りの囚人から赤穂の浪人が吉良邸に討ち 入ったと聞いてから、実は自分が川口彦七だと言い出しました。

 南町奉行所年番与力の渡辺一蔵が「潮田又之丞に会いたい」と、吉良邸討ち入りのあと預けられている細川家下屋敷に訪ねてきた。潮田又之丞に仕えていた彦 七(久造)は「又之丞の頭に家紋と同じ蛇の目の禿があるはず。それを確かめて欲しい。自分が彦七である(彦七殺しの下手人でない)」ことが証明されるはず だと言っていると。

 さて、又之丞に蛇の目の禿はあるのでしょうか?死体の男は?

 この章では、赤穂浪人の吉良邸討ち入りに便乗した商売がいくつか紹介されています。何時の世も商人はたくましいものですね。
 大石内蔵助が潜伏中に良く食べたと言う饅頭を持って、内蔵助の預けられている細川家の下屋敷に「是非、内蔵助に食べて欲しい」と言うが、見てみるとその 饅頭には二つ巴の大石家の家紋が押されていた。商人は「内蔵助討ち入り饅頭」として売り出したいと言う。

◆江戸給人百石・松本新五左衛門 
 ◇語り手:八郎右衛門新田の開拓者八郎右衛門の孫・お咲
 ◇聞き手:松本新五左衛門の息子
 ◇場所:葛飾郡西葛西・八郎右衛門新田 名主の屋敷
 旗本・津田家に安基(あき)姫の遊び相手として奉公していたお咲が、「父は弱虫、母は気が触れた」と近所の子供に苛められている安基姫とその婿松本新五 左衛門の一子に話す二人の悲しい物語です。

 安基姫の両親が相次いで亡くなってから、親戚縁者の損得勘定の材料のひとつとして使うための安基姫に縁談が進みます。その相手は松本新五左衛門です。新 五左衛門は17歳で浅野家家臣に養子に入ったのですが、お家の大変で浪々の身となり実家に寄宿していました。

 身の保身と立身を願う兄から、是非養子に行くようにと説得されますが、赤穂浪人の同盟に名を連ねていた新五左衛門は縁談にのることができません。執拗な 兄の説得に「実は・・・」と同盟のことを打ち明けてしまいます。
 聞いた兄は「養子に行かなければ同盟の事をお上に申し上げる」と言い出し、新五左衛門は仕方なく津田家に入ります。

 新五左衛門と安基姫の結婚生活は幸せに過ぎていきました。
 が突然、赤穂浪人の吉良邸への討ち入ったことにより、討ち入りに加わらなかった新五左衛門への風当たりが強くなってきます。兄は自害するように迫りま す。

 当初、世間では吉良邸への「押し入り」と言っていたのが「討ち入り」、「赤穂浪人」と言っていたのが「赤穂義士」と呼ばれるようになっていました。

 津田家を離縁させられた新五左衛門は、安基姫のお腹に一子を身ごもっていることも知らずに、自らの命を絶ってしまいます。安基姫は産後の肥立ちが悪く亡 くなってしまいます。

◆赤穂浪士(Wikipediaより)
 ◇大石内蔵助良雄<おおいしくらのすけよしお(よしたか)>
  家老、1500石。討ち入りの指導者。享年45。
 ◇大石主税良金<おおいしちからよしかね>
  部屋住み。大石内蔵助の長男。討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。
 ◇原惣右衛門元辰<はらそうえもんもととき>
  足軽頭、300石。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。
 ◇片岡源五右衛門高房<かたおかげんごえもんたかふさ>
  側用人・児小姓頭、350石。忠臣蔵では浅野内匠頭切腹の際に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。
 ◇堀部弥兵衛金丸<ほりべやへえかなまる(あきざね)>
  前江戸留守居、前300石、隠居料20石。同志のうち最年長者。享年77。
 ◇堀部安兵衛武庸<ほりべやすべえたけつね>
  馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の決闘での活躍により、堀部弥兵衛の婿養子と なり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。
 ◇吉田忠左衛門兼亮<よしだちゅうざえもんかねすけ>
  足軽頭・郡奉行、200石役料50石。浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。享年64。
 ◇吉田沢右衛門兼貞<よしださわえもんかねさだ>
  部屋住み。吉田忠左衛門の長男。享年29。
 ◇近松勘六行重<ちかまつかんろくゆきしげ>
  馬廻、250石。討ち入りの際に負傷する。享年34。
 ◇間瀬久太夫正明<ませきゅうだゆうまさあき>
  大目付、200石。享年63。
 ◇間瀬孫九郎正辰<ませまごくろうまさとき>
  部屋住み。間瀬久太夫の長男。享年23。
 ◇赤埴源蔵重賢<あかばねげんぞうしげかた>
  馬廻、200石。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。
 ◇潮田又之丞高教<うしおだまたのじょうたかのり>
  郡奉行、絵図奉行、200石。享年35。
 ◇富森助右衛門正因<とみのもりすけえもんまさより>
  馬廻・使番、200石。享年34。
 ◇不破数右衛門正種<ふわかずえもんまさたね>
  元馬廻・浜奉行、元100石。浪人していたが懇願して義盟に加わる。討ち入りでは最もめざましい働きをしたと伝わる。享年34。
 ◇岡野金右衛門包秀<おかのきんえもんかねひで>
  部屋住み。美男で忠臣蔵の物語では大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を手に入れている。享年24。
 ◇小野寺十内秀和<おのでらじゅうないひでかず>
  京都留守居番、150石役料70石。享年61。
 ◇小野寺幸右衛門秀富<おのでらこうえもんひでとみ>
  部屋住み。小野寺十内の養子。享年28。
 ◇木村岡右衛門貞行<きむらおかえもんさだゆき>
  馬廻・絵図奉行、150石。享年46。
 ◇奥田孫太夫重盛<おくだまごだゆうしげもり>
  武具奉行、150石。享年57。
 ◇奥田貞右衛門行高<おくださだえもんゆきたか>
  部屋住み。奥田孫太夫の養子。享年26。
 ◇早水藤左衛門満尭<はやみとうざえもんみつたか>
  馬廻、150石。刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝える。享年42。
 ◇矢田五郎右衛門助武<やだごろうえもんすけたけ>
  馬廻、150石。享年29。
 ◇大石瀬左衛門信清<おおいしせざえもんのぶきよ>
  馬廻、150石。享年27。
 ◇礒貝十郎左衛門正久<いそがいじゅうろうざえもんまさひさ>
  物頭側用人、150石。享年25。
 ◇間喜兵衛光延<はざまきへえみつのぶ>
  勝手方吟味役、100石。享年69。
 ◇間十次郎光興<はざまじゅうじろうみつおき>
  部屋住み。間喜兵衛の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。享年26。
 ◇間新六郎光風<はざましんろくろうみつかぜ>
  間喜兵衛の次男。養子に出されたが養父と折り合いが悪く江戸に出て浪人になっていた。願い出て義盟に加えられた。享年24。
 ◇中村勘助正辰<なかむらかんすけまさとき>
  書物役、100石。享年46。
 ◇千馬三郎兵衛光忠<せんば(ちば)さぶろべえみつただ>
  馬廻、100石。享年51。
 ◇菅谷半之丞政利<すがやはんのじょうまさとし>
  馬廻・郡代、100石。享年44。
 ◇村松喜兵衛秀直<むらまつきへえひでなお>
  扶持奉行、20石5人扶持。享年62。
 ◇村松三太夫高直<むらまつさんだゆうたかなお>
  部屋住み。村松喜兵衛の長男。享年27。
 ◇倉橋伝助武幸<くらはしでんすけたけゆき>
  扶持奉行、20石5人扶持。享年34。
 ◇岡嶋八十右衛門常樹<おかじまやそえもんつねしげ>
  札座勘定奉行、20石5人扶持。享年38。
 ◇大高源五忠雄<おおたかげんごただお(ただたけ)>
  金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。吉良家出入りの茶人に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会があることを聞きつけた。俳諧をよくして俳人 宝井其角と交流があり、これをもととして「松浦の太鼓」の外伝が作られた。享年38。
 ◇矢頭右衛門七教兼<やとう(やこうべ)えもしちのりかね>
  部屋住み。父長助ともに義盟に加わったが仇討ち決行前に父は病死した。享年17。
 ◇勝田新左衛門武尭<かつたしんざえもんたけたか>
  札座横目、15石3人扶持。享年24。
 ◇武林唯七隆重<たけばやしただしちたかしげ>
  馬廻、15両3人扶持。吉良上野介の養子吉良左兵衛義周と切り結び負傷させ、炭小屋に隠れていた吉良上野介を討ち取った。享年32。
 ◇前原伊助宗房<まえばらいすけむねふさ>
  金奉行、10石3人扶持。江戸で呉服屋を開き吉良屋敷を探索した。享年40。
 ◇貝賀弥左衛門友信<かいがやざえもんとものぶ>
  中小姓・蔵奉行、10両3人扶持。享年54。
 ◇杉野十平次次房<すぎのじゅうへいじつぎふさ>
  札座横目、8両3人扶持。享年28。
 ◇神崎与五郎則休<かんざきよごろうのりやす>
  徒目付、5両3人扶持。享年38。
 ◇三村次郎左衛門包常<みむらじろうざえもんかねつね>
  台所奉行・酒奉行、7石2人扶持。享年37。
 ◇横川勘平宗利<よこかわかんべいむねとし>
  徒目付、5両3人扶持。12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べる。享年37。
 ◇茅野和助常成<かやのわすけつねなり>
  横目付、5両3人扶持。享年37。
 ◇寺坂吉右衛門信行<てらさかきちえもんのぶゆき>
  吉田忠左衛門の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は39歳。事件後に幾つかの家に仕え た後、江戸で没。享年83。

 井上ひさしさんは久しぶりでしたが、さすがに面白く一気に読ませられま した。少し井上ひさし作品をまとめて読んでみようかという気になりました。

 でも、このように19人を紹介しようとすると、メモを取りながら何度も何度も読み返さざるを得ませんでした。季節は春ですが、頭の中はもうすっかり白秋 から玄冬に差し掛かっており歯ごたえがありました。

 討ち入りに参加しなかった人、出来なかった人のそれぞれの事情を知ると、18世紀初頭の武家社会に生きた人達が、自分たちを縛る規律を意識しながらも、 単 一な価値観に縛られずに生きていたことがすばらしく思えます。一方で、武家社会のしがらみに巻き込まれていった人たちもおりました。

 井上ひさしさんの本の装丁は、安野光雅さんがされる時が良くあるのですが、この本の装丁・カバー絵も安野さんで素敵でした。津和野の「安野光雅美術館」 はこ ちら

 また、見返し部分に井上ひさしさんが書かれた「吉良邸付近図」が印刷されています。
 井上ひさしさんは文藝春秋臨時増刊号「藤沢周平のすべて」(97年4 月)に「海坂藩(うなさかはん)城下の絵図」を書かれています。
 私などが藤沢作品を読んで、海坂藩の城下を絵図にしようとすれば気が狂いそうになります。なんと細かな仕事をされる方なんでしょう。
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