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05/06/23 戦争が終わって生まれた世代の責任

 今日6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
 60万発の艦砲弾、17万発の地上砲弾が沖縄本島に打ち込まれ、20数万人が殺されました。
 犠牲者の半数以上は、兵士ではない沖縄県民だったのです。

 「さとうきび畑」の歌詞のように「鉄の雨」が3ヶ月も降り続いたのです。

 ざわわ ざわわ ざわわ
 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ
 風が通りぬけるだけ
 あの日鉄の雨にうたれ
 父は死んでいった
 夏の陽ざしの中で

◇沖縄慰霊の日
 沖縄戦末期の45年6月23日、日本軍を指揮していた陸軍司令官の牛島満中将らが自決し、日本軍の組織的抵抗が終わった日とされる。沖縄県はこの日を沖 縄戦終結の日とし、74年に条例で県民の休日と定めた。全戦没者を悼み、平和を祈る日としている。毎年この日には最後の激戦地だった糸満市摩文仁で戦没者 追悼式が開かれる。
 現実には、その後も米軍の攻撃などによる住民や動員学徒の犠牲が続き、南西諸島の全日本軍が降伏したのは本土の終戦より遅い9月7日だった。
 「終戦60年、沖縄慰霊の日『平和の礎』に720人追記」(asahi.com 2005年06月23日)より

 「琉球新報」の6月23日付け社説(「戦 後60年の慰霊の日・語り継ぐ努力今後も 今こそ沖縄戦の教訓生かせ」)を是非お読み下さい。

 先の戦争末期、沖縄は本土決戦への時間を稼ぐための「捨て石」にされました。
 国内唯一の地上戦の舞台となった沖縄では、多くの沖縄県民が犠牲となりました。
 敗戦後も、27年間米軍の支配下におかれ、本土復帰後も米軍基地は居座り続けています。
 在日米軍専用施設の75%が沖縄県におかれています。

 この社説には
 「戦争を行うことを任務とする軍隊が、不戦の誓いを立てた沖縄に駐留することはふさわしくない」
 と書かれています。まったくそのとおりです。

 沖縄戦の実態を隠すような教科書が登場したり、日本軍による「住民虐殺」について記述のある教科書が少数派になったり、「疎開船」を単に「船」と書き換 えることで、国の責任を曖昧にしてぼかしています。
 米軍の沖縄上陸、死者数、米軍が沖縄を占領したことだけを、わずか3行で紹介している教科書もあるそうです。

 先の戦争の反省から制定された不戦の憲法が改悪されようとしています。
 日本は、どんどんと戦争ができる国へと歩み始めています。このことが、中国や韓国などの近隣諸国から警戒される事態となっています。
 私たちは、戦争が悲劇しかもたらさないことをしっかりと認識して語り継いでいかなけれなりません。

 ♪戦争が終わって、僕らは生まれた〜

 私は1948(昭和23)年生まれで「戦争が終わってうまれた」世代です。
 ジローズの「戦争を知らない子供たち」のように「平和の歌をくちずさみながら」生きてきました。
 理屈や理論ではなく、先の戦争への反省から生まれた憲法の不戦の誓いを正しいものと生きてきました。

 しかし、世の中は”いつか来た道・戦争への道”を進んでいます。

 声高に「反戦」と叫べなくても
 好戦的な人たちを論破できなくても
 デモのスクラムに加われなくても
 毎日の生活に汲々としていても

 戦争を憎む気持ちを持ち続けたいと思います。
 そして、いつか一人の人にでも、そんな気持ちが伝えられたらと思っています。

 小泉首相は、5月に千鳥ヶ淵戦没者墓苑での拝礼式への参列、6月19日 の硫黄島・戦没者追悼式への参列、そして今日、沖縄全戦没者追悼式に参列しました。また8月の長崎、広島の原爆の犠牲者追悼式にも参列するとのことです。
 自らの靖国神社参拝への批判や非難をかわすために、これらの式典へ参列しているとすれば犠牲者への冒涜ではないでしょうか。
 
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