11/09/10 青春18切符
鉢呂経済産業大臣
が辞任したそうです。
「放射能をうつすぞ」「福島は『死の町』」とかの発言をマスコミや自民党などの野党から責められたためとのことのようです。
「うつすぞ」はともかく「死の町」発言は当たり前のことだと思います。
経産大臣を責める前に、福島を「死の町」にした東京電力、原子力発電を進めてきた自公、片棒を担いだマスコミの責任を追及してほしいものです。
原発を主管する経産大臣の辞任は被災地にとって不幸なことだと思います。
青春18切符が2回分も残っていたので、無計画に電車の旅をしてきました。
◆東海地方小さく一回り
東海道線−(岐阜)−高山線−(美濃太田)−太多線−(多治見)−中央線−(名古屋)−東海道線と小さく一回りしてきました。
◇JR各社の確執?
9時過ぎ、遅めの出発です。
JR西日本とJR東海の境目の米原での乗り継ぎが不便です。接続時間が短く会談を上り下りしてホームを移動しなければなりません。おまけに行き先は8駅
30分ほど先の大垣止まり、大垣で名古屋方面に乗り換えねばなりません。
◇おばさんもお兄さんもお姉さんも18切符
米原から大垣までの間、近くに座ったおばさん二人、若い男女の4人は意気投合し青春18切符談義がにぎやかでした。
MC役のおばさんは大阪から東京の親戚まで、もう一人のおばさんは京都から岡崎の実家まで、若い女性は町田に住み都立高校から多摩美の学生で高山、京都
などを巡っての帰途、男性は慶応の学生で美大の女学生とどこかで出会って一緒に東京に帰るところのようでした。
MC役は自分の身内のこともぺらぺらと自慢多らしく良くしゃべり、周りの人に不躾な質問を繰り返して上記のようなことを聞き出す才能をお持ちのようでし
た。
◇個性のない駅舎
新しくなった駅舎はどの駅も立派な建物になっていました。岐阜駅二階が大きなコンコースとなっていて外に出ると右の写真のようなミストを噴出していまし
た。
多治見駅も二階のコンコースも下の写真のような大きな陶板の壁画があり立派なものでした。
◇岐阜駅で缶ビールとおつまみを買って高山線に乗り換えます。
のんびりと東に向かいます。各務ヶ原辺りではサラリーマンの乗り降りが続きます。また、工場が多いのでしょうか外国人の乗客も目立ちました。
美濃太田は中山道太田宿、前回は下車して宿場町を散策しましたが今回はパスします。
◇太多線
「たいたせん」と読むそうです。高山線美濃太田と中央線多治見を結ぶ路線で私は初めて乗りました。
小さなアップ繰り返しながら南へ走ります。
◇名古屋
名古屋では夕刻になってきたので昔の職場の人に会おうかとも思いましたが面倒になり下車もせず、岐阜、大垣、米原、京都と乗り換えて帰宅しました。
◆讃岐うどん
青春18切符の使用期限の10日に最後の1回分を使って坂出にうどんを食べに行って来ました。
体力がなくなっているのか、やる気がないのか自転車を持たずに行ってきました。
◇往復9時間、滞在90分
夜に会議が入っていたので自宅から坂出までの所要時間4時間半、坂出での滞在1時間30分という強行軍でした。
◇日の出製麺所
時間がないので坂出駅周辺の店に。
一軒目は営業時間が1時間半とすごく短い日の出製麺所へ。11時40分ころに着いたのですが既に50人ほどの列ができていました。うどん屋はラーメン屋
と違い客当たりの滞在時間が短いのと店のお姉さんの客捌きのうまさもありどんどんと捌けていきます。
行列でつ間に注文(温、ぬる、冷の3種類と1玉、2玉、1.5玉)をとり、食べ方(葱は鋏で切る、だし汁は・・)を教え、勘定(食後、自己申告で)の指
導まで終わっている手際よさです。
私は2玉冷たいもの、葱と生姜にだし醤油をかけていただきました。エッジがしっかりした男前の麺です。200円。
◇上原製麺所
2軒目は駅をはさんで反対側の市役所近くの上原製麺所へ。
相変わらず表か裏かわかりにくい店です。南側のとおりに面したところに駐車場ができており、そこの矢印に従って入ると工場の裏に出ました。
うどんではなく金物を作っているといわれてもわからないような建物です。
12時20分頃なのに客はゼロ、おじさんに2玉ヌルといってどんぶりに麺を入れてもらいます。
トッピングは昆布のテンプラ、ぬるいだし汁に良くあって甘くて美味しいものでした。麺は作りおきのようでコシが今ひとつでした。330円。
◇タテソース
上原製麺所から坂出駅に向かう道の酒屋でガラス戸に[タテお好み焼ソースあります]の貼
り紙が目に付きました。
聞いてみると倉敷の豊島屋(てしまや)の製品とのことでした。
岡山駅で下車し駅前のデパートの地下2階に売り場がありました。お好み焼
ソース、激辛ソース、ポン酢などを買いました。重い土産となりましたが早速次の休日に何か作らねばと思います。
◇回想
瀬戸大橋線で岡山に向かう車内でいろいろのことが思い出されました。
私の子どもの頃の小学校は2年毎にクラス替えと担任の教
師が変わる、小学校では3人の教師に受け持ってもらうことが普通でしたが、私は6年間で6人も教師が代わったのです。
産休に入った先生の代わりに俗に言う産休先生や途中で退職する先生などで
担任が良く代わったのです。
その中の一人が岡山出身の若い藤井という先生でした。ど
うして田舎の小学校に赴任してきたのかはよくわかりませんでしたが、2ヶ月位で私たちの前から居なくなった理由もわからないままでした。
もうひとつの思い出は昔の同僚の父親の葬儀に参列した時のこと、漁村のような坂のある田舎の町で葬儀は自宅で営まれてい
ました。喪主であった同僚が頭に三角の白い布?をつけて野辺の送りをしていました。
映画で見るような白い三角がしばらくは目に焼きついていました。
昔のことを回想するということは、あまり先が長くないのでしょうか?
そんなことを考えながらの帰途でした。
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