11/11/04 佐
野洋「墓苑とノーベル賞」
目の手術をした母
を見舞った帰り、連れ合いとの話。
我が母は病院のベッドのクッションの中に、自分の気ままに使える小金を隠し持っていました。
連れ合いの母は同居する兄夫婦に通帳を預けていて、本人が自由にできる金がほとんどなくなったとのことです。
老いてきた人は、どのタイミングで身包み預けたらよいのでしょう。
実母は強かに自由になる金を確保して、義母はすべてを預けてしまい百円の金も兄夫婦を通じてしか自由にできない。
老人が悪徳商法に騙されたり、質の悪い縁者に金をせびられたりと心配事はいろいろと考えられます。しかし、金もその人の尊厳を構成する大事な要素だと私
は思いますが。
佐野洋さんの短編集「墓苑(ぼえん)とノーベル賞」を紹介します。
サブタイトルに「岩中女史の生活記録」とあるとおり、夫・岩中亮一(59)と新興住宅街に暮らす岩中妙子(56)が日常を記録した小説という体裁になっ
ています。岩中家から徒歩圏内のマンションに娘・佐知代がその夫で新米弁護士の蓑田正人、長男・直人と暮らしています。
妙子は自治会の防犯部長を努めています。夫の良一は、警察官を定年前に希望退職し縁故の紹介で警備会社に再就職している。
妙子の楽しみは週に1、2度、近所に住む初孫の直人に会いに行くことです。
初出は「小説宝石」の08年10月号から11年5月号までに掲載されたものです。
1928(昭和3)年生れの佐野洋さんは80歳を超えてまだ現役で瑞々しいミステリーを書かれていることに驚きです。
◆墓苑とノーベル賞
連作の第一作ですので、妙子がなぜ小説を書く気になったのか、なぜタイトルを「岩中女史の・・・」としたのかが説明されています。
偶然立ち寄った古本屋の店先で「一冊百円」と値札のついた石坂洋次郎の「石中先生行状記」が目に付いた。前の戦争末期から戦後まで故郷の弘前に疎開して
いた石坂洋次郎が「地方の庶民生活をやや滑稽に描いた」連作です。石坂洋次郎の等身大の石中石次郎という登場人物を「私」と書かず「石中先生」と書いてい
ます。
「石中先生行状記」を買って帰った妙子は、これくらいなら私にも書けると思うのでした。娘婿の蓑田正人が初対面の妙子の印象を娘の佐知代に「なんだか女
史という感じだね」といった敬称?に倣い一人称を「岩中女史」としたのでした。
さて、新興住宅街に引っ越してきた当時、すでにこの地域に自治会ができていた。自治会の役員は一年交代であり、今年は岩中家に回ってきた。そして役員の
中で防犯部長を「押し付けられ」ました。
私の住む集合住宅のある一帯は、紡績工場の跡地であり自治会の空白地だったのですが、8棟ほどの中層住宅が建てられて入居が始まると行政からの指
導?もあってか自治会が作られたようです。
小説の中にも「入退会は自由だと言われたが日常生活上近隣との付き合いも大事なので、岩中家でも自治会に入会した」と書かれているとおり、我が家も現在
の集合住宅に引っ越してきたとき、自治会への入
会は自由と言われ社宅生活が長かったこともあり自治会の必要性をあまり感じず自治会に入っていません。
市町村の広報誌の配布など行政組織の下請け団体のようになっている自治会ってなんだろうと思うこのごろです。
さて、本題です。
ある日、一人の女性が自治会の防犯部長である岩中家に「公園に変な男がいる」と言ってきた。
「岩中女史」が新興住宅の中にある小さな公園に出向いてみると、60歳前後と思われる男がベンチに座って本を読んでいた。
「あたくし、こちらの自治会の防犯部長をしておりまして・・・」と声を掛けると、男は近藤といい怪しいものではないと自宅に誘われた。
現職をリタイヤして「顧問」の肩書きを持つ近藤氏は、自宅に架かってくるセールスの電話にユーモアを交えて撃退している。
「岩中女史」が訪問中にも集団墓苑のセールスの電話が架かって来た。それに対して「墓苑、つまりお墓ですね。それだったら必要ありません。わたしは死な
ないことになっていますから・・・」と応えた。
それに対して、相手はそれは「ノーベル賞ものですね」と茶化すのでした。
テレアポ(テレホンアポイント)というこの種のビジネスは如何わしい側面を持ちますが、この小説の中ではそこで働く人たち側に焦点が当たっています。
あらためて佐野洋さんは若いと感じた一遍でした。
他に警告と署長感謝状/専用箱と努力賞/指笛と秘密情報/誤配達と文学賞/合理的訓練と残念賞/秘匿と笑顔賞/煙草と演技賞、と紹介したい小編が続きま
すがまたの機会にしたいと思います。
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