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14/05/22 原発は人格権より劣位である


 関西電力大飯原発3、4号機の運転差止を求めた訴訟で福井地裁は21日再稼動を認めない判決を言い渡しました。画期的な判決だったと思います。
 判決を受けて福井地裁前で喜ぶ人の中に知人を見つけて喜びも一入でした。

 まず、判決文の「はじめに」の部分にこうあります。判決文はNPJ(NEWS FOR THE PEOPLE IN JAPAN)の「【速報】大飯原発運転差止請求 事件判決要旨全文を掲載します」を参考にしています。

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 ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と 高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を間わず、すべての法分野に おいて、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。

 個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利 であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。した がって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為 の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの 要請が強く働くのは理の当然である。
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 この文章を読むだけで、この判決が憲法に根ざし、憲法を暮らしに活かして書かれていることが分かる。私たちの生きる権利は何ものにも犯されるものではな いと言うことです。憲法は私たちが生きるための最後の砦なのです。

 原発の安全性についてはこのようにも言っています。

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 原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、原子力 発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置 かれるべきものである。


 この段落が多くのマスメディアが「原発は人格権より劣位である」と報じたのです。
 判決文を読んでその要旨を伝えることは私には難しすぎます。是非オリジナルを読んでください。

 最後に今日(22日)付けの社説を紹介します。

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 大飯原発の運転再開は認めません。昨日の福井地裁判決は、言い換えるなら、国民の命を守る判決とい うことだ。原発に頼らない国への歩みにしたい。
 判決はまず、津波対策に比べて軽視されがちな地震の揺れの強さに着目し、「想定外」は許されないと言っている。
 世界有数の地震国日本では、どんな大地震に大飯原発が襲われるか分からない。原発を冷やすシステムが破壊されない保証もない。一方、想定より弱い地震で も重大事故は起こり得るものだという。
 要するに、「想定外」を恐れている。
◆いくつもの神話の否定
 使用済み核燃料に関しても、放射性物質が漏れ出さないように閉じ込めることが可能な保管設備は存在しない、とも考える。
 さらに、大飯原発の安全技術と設備は、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立つ脆弱(ぜいじゃく)なものだと断じている。
 裁判官の前では関西電力の方に説得力がなかったわけである。
 安全神話の完全な否定である。
 原発の稼働が発電コストの低減になるという関電側の主張も退ける。極めて多数の人々の生存そのものにかかわる権利と、電気代が高い低いの問題とを並べて 論じること自体、許されないと、怒りさえにじませているようだ。
 経済神話の否定である。
 そして、原発の稼働が地球温暖化の原因になる温室効果ガスの削減に寄与するという被告側の主張に対しては、福島原発事故はわが国始まって以来の環境汚 染、甚だしい筋違いとまで言い切って、環境神話も否定した。
 3・11後もまだ残る原発神話を払いのけ、その素顔を国民の前にさらして見せたとすら、言えるだろう。
 原発再稼働に走る政府はどう受け止めるのか。
 国内の原発訴訟で住民側が勝訴したのは、高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)の設置許可を無効とした二〇〇三年の名古屋高裁金沢支部判決と、北陸電 力志賀原発2号機(石川県志賀町)の運転差し止めを命じた〇六年の金沢地裁判決だけだった。
 福井、岐阜両県と近畿の住民が同じ3、4号機の差し止めを求めた仮処分裁判の抗告審で、大阪高裁は今月九日、「現時点では判断できない」と、訴えを退け た。
 今回の判決は、福島の事故直後に当時の近藤駿介・原子力委員長が示した見解を踏まえ、原発から二百五十キロ圏内の住民は事故の被害を受ける恐れが強く、 差し止めを求める権利があると、かなり広く認めている。
◆国民が普通に思うこと

 3・11後、原発の停止や建設中止を求める訴訟が各地で起こされているが、司法の流れは本当に変わ るのか。
 関電はきっと控訴するだろう。差し止めの結論はもちろん、判決内容にも多々不服があるだろう。国は、これでは日本の経済が成り立たない、というかもしれ ない。
 しかしよく考えてみてほしい。今回の地裁の判決理由は、普通の国民が普通に考えて思い至ることばかりではないか。
 その考えの基底には、あの東日本大震災・大津波で引き起こされた福島原発の惨状、放射能汚染の怖さ、また安全神話と今は称される、事故の蓋然(がいぜ ん)性に固く目を閉ざしていたこと、などへの痛切な悔悟と反省とがある。
 事故のあと、日本の原発行政は揺れに揺れた。当時の民主党政権下では、原発ゼロへの計画をいったんは決めながら、自民党への政権交代によって揺り返し た。
 先月、政府は原発をできるだけ減らすと言いながら、その実、原発をベースロード電源と位置づけ、事実上、原発頼みへとかじを切り直した。
 原発に頼らないという道筋は、立地自治体などには経済活動の停滞や雇用の不安を生じさせる。それはもちろん理解せねばならない。そして、日本全体で考え るべきことだ。
 そういった不安を除きつつ、同時に原発政策を見直し、国民の生命・安全を守りぬこうとすることこそが、政治なのではないか。
◆福島の反省に立って
 判決は、あらためて、福島の反省に立て、と言っているかのようである。
 司法は、行政が行うことについて、もし基本的人権を危うくするようなら異議を唱えるものだ。その意味で、今回の判決は、当然というべきであり、画期的な どと評されてはならないのだ。
 経済性より国民の安全が優先されるというのは、これまで私たちが何度も唱えてきたことであり、未来への願いでもある。
 それは大方の国民の思いと同じはずである。
-----------------------------「大 飯原発・差し止め訴訟 国民の命を守る判決だ」(東京新聞社説 14/05/21)

 社説の中に、「
今回の地裁の判決理由は、普通の国民が普通に考えて思い至ることばかりではないか」 とある。誰も望まない戦争ができる国にするのではなく、普通の国民が考える普通の政治を行って欲しいと切に願う。
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