12/07/15 映画「ほかいびと〜伊那の井月」
先
週金曜日の原発再稼働に抗議するデモは東京の官邸周辺の15万人を初めとして、大阪関電前1100人、京都、神戸、
札幌、佐賀、金沢、鹿児島、名古屋、福岡、福井、岐阜、宮崎、長崎の全国14ヶ所で抗議デモが行われたそうです。
直接の参加者、事情があって参加できなかった人たちを含めると、電気が足りない、原発を動かさないと停電して人が死ぬなんてウソは通じなくなっていま
す。
明日は東京・代々木公園で「さようなら原発10万人集会」、それに呼応して京都でも集会がありそうですから参加してみる予定です。
このデモを仕掛けた
人たちにも、参加者にも、国や警察にもこの動きがどこまで行ってどのような形で終息するのか誰にも解らないのではないでしょうか。
今朝早くに京都で大雨が降り被害が出ているとか、昼間は打って変わって湿気と高温に強い日差しで梅雨明けかと思わせました。そんな暑さを楽しんでこようかと宵山を控えた祇園祭の京
都の街に出かけてきました。
お昼ご飯は三条のビ
アホール、ここもいつになく万席に近い状態です。
赤ちゃんを連れた若い夫婦、隣の席のこの夫婦の会話を聞くともなしに聞いていると、我が娘と同じような話を亭主に聞かせ、亭主はウンウンと相槌をうつ
ばかり。つい「頑張れご亭主」と声を掛けたくなりました。
他には夫婦者、おじいちゃんから三世代のグループとファストフードのお店のようでした。
日陰を選びながら、三条通りから室町に出て南へ下がるといくつかの山や鉾が建っています。鉾の周りには出店がずらり、人もわんさか、その中に着物をきち
んと着た町衆の旦那がいたり、色っぽいお姐さんがいたり、鉾よりも人に興味がいってしまいます。
見逃したくなかった映画「ほかいびと〜伊那の
井月〜」を先日大阪・九条(良い名前で
しょ)のシネヌーヴォーで観てきました。
「信州の北に一茶、南に井月(せいげつ)」と一茶と並び称される程の幕末から明治に伊那谷を漂
泊した俳諧師・井上井月の半生をドキュメンタリーと再現映
像で構成した映画です。
制作は井上井月顕彰会、監督は井月臨終の地、伊那市美篶出身の北村皆雄さん、出演は井月役に田中泯さん、語りを樹木希林さん、他に井月研究家や縁の人、
郷土芸能などに地元の人びとがたくさん出演されていました。
さて、この映画をどうしても観て置きたかったのには少し訳があります。
鬱々と暮らしていた10年ほど前に、山頭火に出会い古本で春陽堂の「山頭火の本」を全巻を読み耽っていました。この頃は放浪の俳人に興味があり山頭火、
井月とともに尾崎放哉、西東三鬼らの破滅型の生き方に興味がありました。
山頭火は井月の墓参りをしようと伊那への旅
にでますが病に倒れ一度は果たせず、二度目に墓参をしています。井月の墓前で木瓜を備え<お
墓したしくお酒をそゝぐ>と詠んでいます。
そんな井月とはどんな人かと春日愚良子編著「蝸牛俳句文庫井
上井月」
と江宮隆之著「井
上井月伝説」
を読みました。何故、山頭火が慕ったのかはよくわかりませ
んでした。酒好きだったからでしょうか。酒好きのわたしも井月に憧れて伊那の井月の墓に詣でたことがあります。
井月は芭蕉のことを<我
道の神とも拝め翁の日>と詠むくらいに芭蕉に心酔していたのに、山頭火は「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通(芭蕉の弟
子)や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」と言っ ています。
井月が武士の身分も
親も妻も子も捨てて異国に放浪する、帰郷しなかった理由は何だったのか、その答えが映画の中にヒントがあるのかと楽しみな映画でした。
映画は井月が残した句と、その背景となる祭礼などの行事、駒ヶ岳など自然の風景の中に田中泯さん演じる井月が溶け込んで詩情豊かな一遍でした。
井月が伊那に現れ、30数年後に野垂れ死のように消えて行くまで、井月の生国と言われる長岡藩は大政奉還に抗して戦い(戊辰戦争、北越戦争)での多くの死、明治維新と増税など抗する
民衆の蜂起(秩父事件)などがしっかりと描かれていました。
映画を観たあとも、何故山頭火が慕ったのか、井月は何故生国を出奔したのか、何故帰郷しなかったのかは分からぬままでした。
「ほかいびと」とは、
井月が一宿一飯の恩義に報いるため、その家の繁栄や豊作を祈って一句を認める暮らしをしていたことから「祝い人」と言うことから名付けられたとのこと。
井月のことなどを書い
た過去記事はこちらをご覧ください。
◇放浪の俳人・井上井月
のこと(残日録05/03/08)
◇井月墓参(残日録08/09/04)
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