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05/03/11 放浪の俳人たち 尾崎放哉(おざき・ほうさい)

 昨日、3月10日は東京大空襲の60回 目の記念日でした。1945(昭和20)年3月10日未明、僅か2時間余りの間に、10万人を越す無辜の人々がアメリカ軍機の無差別爆撃により殺されまし た。

 その後、アメリカ軍の無差別爆撃は、名古屋、大阪、神戸、さらには全国の都市に広がり、ついには広島、長崎の原子爆弾投下まで続き、80万人を上回る民 間人の犠牲者を出しました。

 私は、このような戦争の加害者にも、被害者にもなりたくありません。

◆憲法9条
 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段 としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 さて、今回の本題に。

 山頭火(さんとうか):残日録050130、 井月(せいげつ):残日録050305と放 浪・漂泊の俳人たちの歩んだ道を、少し覗いてみました。

 一所不住の生活を何年も何十年も続ける彼らの生き方が何故私たちの心に迫るのでしょうか?自分たちも行方定めぬ旅の中に身をおいて日常から開放されたい と願っているからでしょうか?
 何回かに分けて放浪の俳人を取り上げたいと思います。今回は尾崎放哉(おざき・ほうさい)です。

 1885(明治18)年、旧鳥取藩士族の家に生まれる。小学校では、他の子供たちが自宅に帰って昼食をとって来るのに、放哉には毎日弁当が届けられるほ ど生家は裕福であったそうです。

 学業も優秀で、一高、東大、大学卒業後は東洋生命(現在の朝日生命)に就職するという超エリートでした。
 そんな彼が、何故放浪・漂泊の人生を送ることになるのでしょうか?

 放哉は3つの大きな挫折を経験して、社会からはみ出して放浪の生活に入ったといわれています。
 第一の挫折は、従姉妹との結婚を希望したが周囲から近親結婚はだめだと反対されて叶わなかったこと。
 二番目には、保険会社の大阪支店次長として赴任したが、支店長以下のいじめにあい一年足らずで本社に平社員として帰任させられます。
 三番目の挫折は、生命保険会社を退職した後、知人の紹介で朝鮮火災海上保険の支配人として入社、ソウルへ赴任するが禁酒の誓いが守られなかったという理 由で罷免されます。

 帰国後、妻と別居して1923(大正12)年12月に京都山科の奉仕修養団体・一燈園に入ってから、小豆島・土庄の南郷(みなんご)庵で亡くなる1926(大正15)年4月までの2年数ヶ 月の間に8ヶ所あまりを放浪しています。

◆放浪の軌跡(日付の合わない部分は別に調べてみます)
◇京都山科・一燈園(1923/11/23〜1924/3)
 一燈園での生活は、病弱(帰国前に満州で発病した肋膜炎)であったことと、肉体労働の経験のない放哉には続けられませんでした。社会からはみ出した放哉 が、一燈園のような共同生活は無理なことだったと思います。

◇知恩院の塔頭・常称院(1924/3〜1924/4)
 常称院の寺男となるが、4月に寺を訪ねてきた井泉水と会食、痛飲し住職と喧嘩をし追い出されてしまいます。

◇神戸・須磨寺・太子堂(1924/6/1〜1925/3)
 一燈園時代の友人・住田蓮車の紹介で太子堂の堂守となるが、翌年、僧侶たちの権力争いに巻き込まれ寺を去ることになります。

◇一燈園(1925/3〜)
◇小浜・常高寺(1925/5/24〜1925/7)
 須磨寺を出た放哉は、一時、一燈園に身を寄せますが、福井県小浜の常高寺の寺男となります。常高寺は由緒あるお寺のようですが、当時は貧乏寺で7月には お寺破産のために京都に戻ることになります。

◇京都・龍岸寺(1925/7〜)
 病気の進行もあったのでしょうか、寺男としての肉体労働が出来なくなってきていたようです。

◇京都・井泉水居(〜1925/8)
 当時京都に隠棲していた井泉水の家に転がり込み、一つ布団に二人で寝ていたそうです。

◇小豆島・西光寺・奥の院・南郷(みなんご)庵(1925/8/20〜1926/4/7)
 庵住したいという放哉の希望を井泉水らの尽力で、小豆島土庄の西光寺奥の南郷庵に庵住します。
 10月「左肋膜癒着」の診断、翌年(1926年)2月には「湿性肋膜炎、癒着後からくる肺結核」と診断される。
 4月7日没。

 俳句結社「層雲」主宰者・荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)が一高・東大の先輩だった縁で、山頭火と同じ「層雲」の同人となります。
 同じ時代に生きた自由律の俳人であり、酒飲みであり、酒を飲んだ上での失敗も数ある二人ですが、山頭火は「歩く」俳人といわれるのに対して、放哉は「座 る」俳人といわれています。また、山頭火は山を好いたのに対して、放哉は海が好きだったそうです。動と静、対照的な二人ですね。

 山頭火は、1928(昭和3)年7月行乞放浪の旅の途中、小豆島に渡り放哉の墓に詣でています。1939(昭和14)年10月には、松山から八十八ヶ所 の遍路旅の途中に2度目の墓参をしています。
 1928年の墓参時に次の句を残しています。

 放哉居士の作に和して
 ”鴉啼いてわたしも一人”

 句集(決定版・尾崎放哉全句集等)は何冊か出版されています。
 私は、青空文庫から「尾崎放哉句集」をダウンロードして読みました。
 また、評論も多数ありますが、私は、小山貴子「暮れ果つるまで 尾崎放哉と二人の女性」を読んでみたいと思います。

 有名な句に
 ”せきをしてもひとり”
 が、あります。

 私は
 ”にくい顔思ひ出し石ころをける”
 が何となく好きですね。悪態をつきながら思いっきり蹴って、足の痛さに相手の手強さを知ったりしますね。

 鳥取生れの放哉は、鳥取県が尾崎放哉ホームページを作って顕彰しています。
 小豆島(土庄町)に尾 崎放哉記念館があります。

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